サマー・ヴァンパイア 2

 ガウリイはリナの家に既に何度か訪れたことがある。もちろんガウリイの正体は秘密だ。ご家族にははじめ「ただの友人よ」と悲しくなる紹介をされたが、二人の不思議な距離感に同情の目配せをされつつ、ガウリイは彼らにもそれなりになじんできている。ただ、たまにリナに近付きすぎると殺されそうな殺気にさらされたりもする。
 今日もまずはご家族に挨拶しなければと思っていたところ――リナがわずかに声を潜ませ、ガウリイに告げた。
「あのね……うち、今日は誰もいないの」
 この台詞だけを聞いたら、普通の男子は小鼻を膨らませ瞳孔を開き、かつてないチャンスに胸をときめかせるだろう。しかし、ガウリイはまず疑った。リナが甘い意味を含ませてこんなことを自分に言ってくるはずがないのだ。
「ああ、みんなすぐに帰ってくるんだろ?」
「違うわよ、本当に明日まで誰もいないの。姉ちゃんは出張、母ちゃんは友人と旅行。父ちゃんは町内イベントの打ち上げで飲むって言ってたから、帰ってくるのは明日の昼じゃないかな?」
「……そ、そうか……」
 いけない。期待してはいけない。
 わかっているのになぜか血圧は一瞬にして上がり、脈が速くなる。ガウリイはにじむ手汗をズボンで拭いた。
 リナはどういうつもりでこんなことを自分に言ってきたのだろう。本意を知りたくてちらりと横を見ると、彼女はにんまり笑っていた。
「つまりね、ピノを開けても『それちょうだい』って言われないし、三連プリンを独り占めすることもできるのよ!!」
 ガウリイは小さく息を吐いた。やはりリナはリナだった。もう一度、安堵か失望かわからない吐息を小さく零した。
「……暴飲暴食はほどほどにな」
「そんなのわかってるわよ! あ、あっちのコンビニ寄ろ?」
 リナの主導で、コンビニの小さい買い物かごに食料、お菓子、飲み物をどんどん放り込んでいく。
「あっ、冷凍餃子があるわよ。食べる?」
「いらない」
「やっぱりニンニクは嫌いなの?」
 リナが目を細めてくすくすと笑った。
「いや、普通に食べられるけど……今日はいい」
 女の子の家に行くのだ。しかも家族は不在という。そんな時には吸血鬼でなくともニオイのする食べ物は選択しないのではないだろうか。初めてのキスの思い出はニンニクとともに――だなんて、シャレにもならない。
「よし、行こっか!」
 コンビニを出て少し歩いたところで、ガウリイは突然足を止めた。
「あ、ガム買うの忘れた。すぐ買ってくるから先に行っててくれ」
「そう? じゃ歩いておくわよ?」
 小走りでコンビニに戻ったガウリイはガムとゴムを買った。ちゃんとガムも買ったのだから嘘はついてない。例え1パーセントの確率しかなくとも、備えておかなければならない時というものがある。


 リナの家に到着し、家族は不在だからと二人はリビングに陣取った。DVDを取り出しながらガウリイは後悔する。どうしてもっと雰囲気よさげな映画を借りてこなかったのだろう。血沸き肉躍るアクション映画のヒロインはパッケージで険しい顔をして銃を構えていた。
「あ、そういえば冷蔵庫に冷えた桃があるの」
「あとででいいんじゃないか?」
「観ながら食べたいの。剥くから待ってて」
 くるりと台所に向かうリナの尻を見ながら彼女の桃尻はどんな様相だろうかと思わず考える。桃よりはリナが食べたい。そんな桃色の悩ましい妄想をしているガウリイの耳に、リナの小さな悲鳴が聞こえてきた。
「――いたっ!」
「どうした!?」
「つうっ、指切っちゃった」
 慌てて駆け寄るガウリイにリナは左手の小指を見せた。桃汁のついた、濡れた左手。その小指にはほんの数ミリ程度の包丁傷があった。赤い糸のような傷口から血がじわりと出てくる。それを見た瞬間、ガウリイは目を剥いて後ずさった。背後の食器棚にぶつかって扉ががたりと鳴る。
「おまえっ……急に、そんなもんを……!」
「……は?」
 ガウリイの驚きようにリナは目を丸くする。まるで恥ずかしいものを見てしまったかのようにガウリイは挙動不審になっている。リナは怪訝な表情になり、自分の左手の怪我をためつすがめつして見た。
「ちょっぴりしか怪我してないわよ? こんな少しの血が……あっそうか、ガウリイって吸血鬼だったっけ。さては、あたしのおいしそうな血にあてられた?」
 リナはにやりと笑って、左手をガウリイの眼前に突きつけてきた。
「おわーっ! やめろって!!」
 おかしい。血なんて、テレビや映画や、たまに本物を見てもこんなに過剰反応してしまうことは今までなかった。ガウリイはリナに見せつけられるわずかな血に仰け反りながら、なぜだと考え続けた。
 ――おかしい、リナの血はおかしい。
 やたら「おいしそう」に見える。このほんの1ミリリットルにも満たない血から強いリナの「におい」がしてくる。新鮮で、まだ何にも穢されていない瑞々しい真っ赤な血が宝石のように強烈に輝いてガウリイを惹きつける。
「やめろ、見せるな!」
「ガウリイの食わず嫌いもたいしたもんね~」
 ひどい。この葛藤をなんだと思っているのだ。
 ずっとリナへの愛情を壁にして考えないようにしていたのに。その張りのある皮膚の下に流れている「おいしそうなもの」を見せつけられ、ガウリイはどうしようもなく湧き上がってくる渇きと戦っていた。

 くだらない! オレは吸血なんぞしなくても大丈夫なはずだ。もしそんなことをして、リナを困らせることになるのは――絶対に嫌なんだ!!
 目を背け耐えようとしているガウリイの鼻先に、リナはしつこく左手を伸ばしてくる。
「ほぉらほら~リナちゃんのおいしそうな血よ~」
 ガウリイの反応を面白がり、からかって遊んでいる。
 吸血鬼の血のにじむような忍耐を踏みにじるこの非道な行為。ふざけるのをやめないリナに、次第に怒りすら湧いてくる。
 一言、ガツンと言ってやる!!
 ガウリイはかっと目を見開いて、眼前に伸ばされていたリナの左手首を掴んだ。
「あのなあ、リナ! オレがどんな気持ちで――」
「あっ、血が垂れちゃう」
「へっ?」
 二人の視線がリナの小指に向かう。
 表面張力限界の小さな赤い粒がぷるぷると揺れ、下に落ち――そうなその瞬間、思わずガウリイはその指をぱくりと咥えてしまった。

「………………!」

 舌にリナの血が触れたとたん、衝撃が駆け巡る。毒が全身を巡ったかのように激しい眩暈がした。

 これは本当に血なのか? これが吸血? 自分は吸血してしまったのか?
 水とも酒とも、今まで口にしたことのある何とも違う。わずかな量の血から、リナのすべてを味わっているかのような情報がガウリイに伝わってくる。リナの弾けるような生命力、意思の強さ、清廉なその魂。脳髄を揺らすように「リナ」の存在がガウリイを染めていった。
「……っ、うぅっ……!」
「ガ、ガウリイ……だいじょうぶ?」
 呼ばれて、はっと指から口を離す。目が合ったリナはガウリイの瞳をじっと見ていた。おそらく、自分の瞳は青から赤へ変化してしまっているのではないだろうか。
「すま……ん……」
 捕まえたリナの手首を解放したいのに、力を抜くことができないでいた。また小指の先に滲み出す彼女の血を見て、ガウリイは衝動的に舌を伸ばす。
「ガウリイ?」
 気付けば、そのわずかな血を求めてガウリイはリナの指を執拗に舐めていた。
「ん……うぅ……」
「ガウリイっ……だめっ……」
 戸惑うリナのか細い声、揺れる瞳が、なぜか遠くに感じる。舐めるほどに正体を失いそうだった。どくどくと全身は熱くなり、解けた鉄がガウリイの血管の中を流れて指先まで熱くしているよう。次第に目の前が白くなり、リナの困惑した顔も掠れぼやけていく――。



*****



「あっ、リナさーん! どうでした?」
「……何が?」
「昨日、ガウリイさんとDVD鑑賞会したんでしょ?」
 大学のリナの同級生、元気娘のアメリアが話しかけてきた。
「あー、うん、鑑賞会ね……そういえばそうだったわね」
「しなかったんですか?」
「しなかったというか、できなかったというか」
「ええ、なんでですか?」
「昨日、ガウリイが初めてきゅうけ……あ、いや……その」
「は? 初めて?」
「……その、あることをしたら……ガウリイが気絶しちゃって大変だったの」
「はあっ!? ガウリイさんが? 初めてで?」
「あー、うん」
「ガウリイさんが初体験で気絶ぅ!?」
「ちょっ……声が大きいわよアメリア! あと何よその誤解を招く言い方は!」


 ……こうして、『ガウリイが初体験で気絶したらしい』という噂が瞬く間に大学中に広まったのだった。真実が説明できない内容だけに、この誤解を解くことはほぼ不可能だったとか。

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