ドリップバッグで手早くコーヒーを入れる。フィルターを外してシュガーとミルクを放りこみ、かき混ぜながらリナはパイプ椅子に座った。斜め向かいでは、さっきからゼルガディスがノートパソコンに向かい静かに作業をしていた。彼のブラックコーヒーはすっかり冷め切っているようだ。
「ねぇ~ゼル、何かお菓子とかないの?」
「ない」
「チッ……しけてるわね」
「ここに置いておくとあんたにすぐ食べ尽くされるからな」
「悪かったわね。あたしはただ新鮮なうちに美味しく賞味してあげてるだけよ!
あ~ケーキでも食べたいところだわ」
背もたれに寄りかかると、ぎいっと椅子が鳴る。
ここはレゾ教授のゼミ室。本来なら学生が入り浸ってよい場所ではないが、教授はその知名度からかひっきりなしに講演依頼があり、留守がちだ。今ももう一人の助手を連れて全国各地を飛び回っている。その留守を預かるのがゼルガディス──教授の身内らしいが、身内だからという贔屓を抜きにしても彼は使える助手だろう。
「ここのものをあてにしてないで、彼氏にケーキでも何でも奢ってもらえばいいだろうが」
「あー。別れたからそれは無理」
「……なんだと?」
ゼルガディスが顔を上げてこちらを見た。
リナは余裕を込めた笑みでその視線を受け止める。軽く髪を片手でかきあげ、腕を組んだ。
「だーからー、先輩とは別れたの」
「いつ?」
「おととい。まだそういう噂は広まってなかった?」
「いや、聞いてないな……卒業生どもとも最近は会わないしな」
「そういうわけでリナちゃんは今フリーなの」
驚きはすぐに引いたようで、ゼルガディスはまたパソコンに向かうと軽やかに手を動かす。画面から目を離さずにぼそりと喋った。
「──そうか。
確かにあんたらは馬が合わなさそうだったな」
「へ!?
そ、そうだった? そう見えたの?」
「両方を知る俺としては、そう思っていた」
「っもう、ゼル! そう思ってたんだったらなんで最初に言ってくんなかったのよ! とんだ無駄な時間を過ごしちゃったじゃない!」
「上手くいかなかったことを俺に責任転嫁するな!
それにこういうのは付き合ってみないとわからんもんだろうが。他人が口出しできるものではない」
ぱんっとエンターキーを鳴らしてからゼルガディスは冷めたコーヒーを手に取った。
そうだけどさ、とリナはもごもごつぶやく。
「でもそういったことがあったわりには平気そうじゃないか。さっぱりしたか?」
「さっぱりしたっつーか……それどころじゃないのよ、今」
リナが苦笑を浮かべる。
何があった? ──とゼルガディスが問いかける前に、廊下をぱたぱたと早足に近寄る音がした。
「あ、やっぱりここにいた!」
飛び込んで来たのはリナよりも1学年下の新入生、アメリア。その大きなくりくりとした目が、心なしかいつもより輝いている気がする。
リナが室内にいたことを確認すると、アメリアは廊下に声を上げる。
「リナさん、ここにいますよ~!」
誰に向かって呼びかけているのか。
リナとゼルガディスがいぶかしげに入口を見ていると、ドアの高さぎりぎりまでのところに頭が現れる。リナを見つけてにっこり微笑む、長身の金髪碧眼。
リナはがたりと立ち上がった。
「ガ、ガウリイっ!? どーしてここに!」
「いやー、リナを探してうろうろしてたら、この人が案内してくれた」
「私のことはアメリアでいいですよ、ガウリイさん」
「そーか。ありがとなアメリア」
「いいえどういたしまして!
困っている人を道案内するのも正義の尊い行いですっ」
「だーかーらーっ! どうしてあんたがここにいるのっ!?」
会話をさえぎり、リナが声を荒げる。
「なんか暇だったし」
「部屋でじっとしてなさいって言ったでしょっ!?
それにどーやって学校の場所がわかったの!?」
「リナが部屋の窓から教えてくれたじゃないか、あのでかい建物が大学よってさ。
会いたくなったから歩いてきた」
しれっと言われてリナは赤面する。なかなか見ないリナの表情とガウリイの言葉に驚いて、ゼルガディスはむせ返りそうになった。
「部屋ぁっ!? リナさん、もうガウリイさんと同棲してるんですか!?」
「え、あ、違うのよっ! こいつが行くところないって言うから──」
「もしかしてこれが別れた原因か……?」
「違うー! ちょっと誤解しないでよ、こいつはただの……!」
「「「ただの?」」」
声をハモらせてリナ以外の三人が続きを促す。リナは荒ぶる息を抑えつつ、ぎろっと三人を睨み付けた。
「……居候よ」
その回答にアメリアとゼルガディスは、へええ、と含みのある表情をした。これ以上面白がられてはたまらない。リナはガウリイをゼミ室から追い出そうかと側に寄る。
「リナ、いそうろうってなんだ?」
「いたいけな女子大生の部屋に転がり込んで生活を引っ掻き回したあげく大学にまで押しかけてくるような迷惑極まりない奴のことよ」
「へえ……ってそれがオレってことか?」
「そうに決まって──ん? ガウリイ、手に持ってるの何?」
見れば、片手に四角いケーキ箱のようなものを持っている。確かめてみるとそれは間違いなくケーキ箱で、リナは店名を読んで息を飲んだ。
「こ、これどこから? 開けていい!?」
「ああいいぜ。ここに来る途中で、重そうな荷物持ってるおばあちゃんがいたんで助けたんだ。そしたらすごく感謝されて、それもらった」
「……にょぉぉおおーっ!? こ、これは間違いなくあの有名菓子店カバラ屋の一日限定10ホール・ベイクドチーズケーキぃいいっ! よくやったガウリイ! えらいっ!」
褒められてガウリイが嬉しそうににぱっと笑う。
アメリアがコーヒー入れますね、とポットに向かい、冷めてしまったゼルガディスの分まで入れなおした。
「おいひぃいい~♪
ここのチーズケーキ、絶品って評判高いのよ! チーズの味がこうぎゅーっと密度が濃くかつさっぱりほんわりとした後味! くぅ~っこのケーキを──ええと8等分してアメリアとゼルとガウリイに一つずつだから──8分の5ホール食べることができるだなんてっ!」
「……リナさん、後は全部自分で食べるつもりなんですか?」
「あったりまえじゃない! このケーキはガウリイが得たもの! しかしガウリイは現在無一文であたしんとこに居候してんのよっ。ということはガウリイのものはあたしのもの! あたしにはその権利がある!」
論ずるリナの目の前で、ガウリイは2個目の8分の1にフォークを突き刺すとひょいぱくっと口に放り込んだ。
「ぎゃーっ!? ガウリイっ! あたしの許可も得ず、なに勝手に食べてんのよーっ!」
「はにいっへるんは、おへのものってリナもひったらろうば!」
「ぬおーっ許さん!
あたしのレアチーズケーキさん8分の1を出せ! 今すぐ元通りにーっ!」
「んぐっ……無理言うんじゃない!」
リナのフォークを小皿で防ぎ、ガウリイの手が再びケーキに伸びる。はっと気付いたリナがケーキそのものを片手で退けさせたが、リーチの差でガウリイのフォークがケーキを掠めた。どこをどうやったのか、一切れがぽーんと空中に飛び上がる。
全員の目がケーキを追う。
それは、ぱくっと一口でガウリイの口に収まった。
「ん~んまい~♪」
「うおにょれえええー許すまじ!」
フォークとフォークのぶつかり合う金属音がゼミ室に響く。
小分けにした自分の分のケーキを口に運びながら、ゼルガディスはげんなりとしていた。
「食べ物は大事にしろ……」
「大事にしてると思いますよ。これ以上ないほど」
空になった箱を片付け、散らかった机の上は布巾で拭いて綺麗にした。いくらリナが意地汚いからといって、ケーキを食べるだけでこんなに騒動になったことはかつてなかっただろう。
数日前、リナから『飽きたから男と別れた』とメールが来た時はどう対処すればいいかとアメリアは頭を悩ませたが、今日会ってみればこの様子。ガウリイという男性がリナにとってどういう人であるか現在は不明だが、良い方向に動いていることには違いない。そんなことを考えてアメリアはガウリイを見る。
「──ところでガウリイさん。ずっと気になっていたんですけど、どうしてTシャツを裏返しに着てるんですか?」
「へ?」
「あ! ほんとだ、あんた裏表逆に着てるわよ!」
胸元のアルファベットのロゴが鏡文字になっている。リナがガウリイの襟元を掴んで引っ張ると、案の定、首の後ろのタグも表側に出ていた。
「リナさん気付かなかったんですか?」
「ケーキしか見てなかったから気付かなかった」
「………………」
ケーキに劣る扱いにうなだれるガウリイの胸元を、リナが指先で小突いた。自然、子を躾る親のような口調になる。
「服くらい一人でちゃんと着れないの? ほら~、字が逆になってるじゃない」
「生地がすべすべしてるほうが内側かと思ったんだ。
ここのこれって文字なのか?」
ガウリイの質問にアメリアとゼルガディスがきょとんとする。服の字はなんの変哲もないアルファベットで、図案化されて読みにくくなっているというわけでもない。
「……何人なんだ、そいつは?」
「そ、それがねー……なははは」
「オレにもよくわからないんだ。あっはっは」
「「はあ!?」」
「こいつ、記憶障害らしくって」
「いやあ」
「別に褒めてない!」
何故か照れて頭を掻くガウリイにリナが突っ込む。何か突拍子もないことを言われたような気がするが、あまりに唐突でアメリアとゼルガディスは思考が追いつかないでいた。
「──記憶障害だと?」
「うん……公園で倒れているのを『偶然』あたしが見つけてね。頭に何かぶつかって、その打ち所が悪かったようで、記憶が混乱してるみたいなの……」
多少事実と違うがそれはご愛嬌。状況をよく覚えてないらしいガウリイはリナの言葉を聞いてただうんうんと頷いていた。
「名前以外は何を訊いても『わからん』って言うのよ……」
「おう、わからんぞ♪」
「ええーっ! 名前以外わからないって……じゃあ身元不明ってことですか?」
「そうなるわね」
「身分証明になるものは持ってないのか?」
「いいスーツ着てたけど、それ以外特に何も持ってなかったわ」
はー、とリナが深く息をつく。
「どっから来たかわからないって言うし行くところないって言うし、可哀想だから拾ってあげたものの箸やトイレや風呂の使い方までわからないって言い出すし、一人じゃ服もまともに着れないし……あんたねぇっそれでも大の男なのぉっ!?」
言い並べるうちにいらいらしてきたらしく、語尾に行くにしたがってリナの声が大きくなる。
「わからないものは仕方ないだろ!」
「にしても、日常生活に必要な知識まで覚えてないってのはまた奇妙だな」
「そういう記憶まですこーんと飛んでったんだわきっと! こっちは一から子供に教えている気分よ! 物覚え悪いし……アタマ打つまでは自分でちゃんとあのスーツも着れたんでしょ? しっかりして欲しいわね」
「あー、あの服は着せてもらった……ような気がするなあ」
「着せてもらった? 誰に?」
「……わからん」
リナはがっくりとうなだれた。空き缶一つでこんな面倒なことになってしまうとは、誰が予想できただろうか。やはりあの時素直に公園からとんずらしていればよかったと後悔する。
「でも服を着せてもらうだなんて、ガウリイさんってもしかしていいとこの人なんじゃないですか? 身の回りの世話は全部してもらえる某国の王子様とか!」
「某国の王子様がどーして一人でうちの近所をうろうろしてんのよ」
「う~ん、それは……なんらかのトラブルに巻き込まれて一人で逃げているところだったんですよ! サスペンスの香りがしますねっ!」
「しないしない」
リナは手をひらひらと振って否定した。アメリアは他の可能性について、ゼルガディスを巻き込んで思案する。
ガウリイは確かに──ビジュアル的に『某国の王子様』でも問題はなさげだ。しかしそんな夢見事を言ってる場合ではなく。今は素性を探るよりも、手っ取り早く問題解決するために、どうにかしてこのぱっぱらぱーな兄ちゃんの脳味噌をはっきり動くようにしてあげなくてはならない。既に家で何度かツッコミがてら殴ったが、特に効果はなかった。やはり同じようなショックを与えないとダメなのだろうか。
「もいちど公園で空き缶蹴ったほうがいいのかな……」
「空き缶がどうしたって?」
「ん? あ、あああいいや! なんでもない!
それよりもあんた、その逆に着た服を直しなさいよ」
「ああ、わかった」
リナの言葉に頷くと、ガウリイはやにわに自分の服の裾を掴み、その場で脱ごうとする。目を剥く二人の女性陣。咄嗟にゼルガディスはアメリアの目を手で塞ぎ、彼女の視界を遮った。リナが色気のない悲鳴を上げてガウリイを押し止める。
「バカバカ! ここで脱ごうとするなぁっ!
トイレにでも行って直して来い!」
「へ? てっきり今ここで直せってことかと……」
「違う!」
「トイレってどこだ?」
「あっち!」
「あっちって、本棚しかないぞ?」
リナが指差した方向を見てガウリイが首を傾げる。
「あんたどこまでアホなのよ!
方角を示してるの! ドアを出て廊下をあの方向に進めって言ってんのよー!」
「なるほど~。
ドアってこれだよな? この掴むところを回せば開くのか?」
「そおよっ!」
「んじゃ行って来る」
「間違って女子トイレに入るんじゃないわよ!」
気を付ける──と応える声は廊下に出て小さくなる。
リナがやれやれと息を吐いた。
「う、あの、ゼルガディスさん、手、手が!」
「ああ! すまんアメリア!
……リナよ……あれは常識がなさすぎだぞ」
ゼルガディスはアメリアから手を離し、椅子ごと身を引いて咳払いする。憮然とした顔で誤魔化しがてらリナに文句を言った。アメリアは頬を赤くしているが、その原因はガウリイの半裸を垣間見たから、というわけではなさそうだ。
「そっ……そうですよ、記憶の問題としても、この常識のなさはひどすぎます!
リナさん、ちゃんと教育してくださいよ!」
「なんであたしの責任になるのよっ!?」
空き缶をぶつけてしまった負い目から面倒を見てやってるが、そもそもガウリイの保護者になったわけでも身元引受人になったわけでもない。だというのに、どうしてあんな図体のでかい成人男子の行動について、リナが責任を負わなくてはならないのか。
「うう、ヘンなものに当てちゃったわね……」
「警察には行ったのか? 捜索届が出されているかもしれんぞ」
「行こうとしたんだけど……ガウリイが、すぐに思い出せそうだから警察は行かなくてもいい、大丈夫だ、ってきかないのよ」
──それにいろいろと調べられて、ガウリイに空き缶をヒットさせたのが自分とバレてしまっても都合が悪い。
「……警察に行くのを渋るって怪しくありませんか?」
「それもそうだけど」
「言っちゃあなんだが、あいつはしらをきっているだけという可能性もあるぞ。
記憶が無い、帰るところが無いというのは嘘で、あんたを利用してるのかもしれん」
「かもね……だとしたらいい根性してるじゃないの。
とりあえずはしばらく様子を見てみるわ」
ゼルガディスの言葉に頷きながらも、リナはガウリイの物事をわからないでいる様子は演技ではない、と感じていた。その非常識なところはさておき、彼自身のことについては何か隠しているそぶりがある。彼に質問すると、ときおり言葉を選んで返しているふしがあるのだ。
あのぱっぱらぱーは嘘つきかもしれない。だが悪人ではないようだ──自分の人を見る目には自信があった。ただし、男を見る目はいまいちだったようだが。
「やはりこれはサスペンスの香りがしますねっ!!」
「しないって」
いつまで面倒を見ることになるかわからないが、解決のあかつきにはなんとしてでもガウリイから謝礼金をたんまりぶんどってやる──とリナは決心した。