それでもいいわ 1

 大学近くの、いつもの喫茶店。ゆったりとした時間が流れるだけの午後だった。
 道を行き交う人々の顔をリナは窓の内側からぼんやりと見ていた。どこへ急いでいるのか足早に去る人、追い抜かされる人、ぶつからないようにそれとなく身を避けあう通行人たち。それぞれに喜怒哀楽の想いがあるだろうが、ここから見る人々は誰もが無表情でそれを伺い知ることはできなかった。こうして見ているだけで人の考えや気持ちがわかるのなら、苦労しないしさせないのだが──と、そんなことを考えて、リナも無表情にカップを口に運んだ。
 正面に座る男が、おもむろに指を組んでテーブルの上に腕を置く。そしてリナをじっと見たのがわかったが、リナはカップのふちを見詰め続けた。
 他人は自分たちを見てカップルと思うだろうか。視線も交わさなければ、最初の頃のあの照れた笑いもこぼれてこない。アメリアから「デートですか?」と訊かれて「まあね」と答える優越感はもうなくなった。こんな居心地の悪い空間にあえて収まってるだなんて──自分らしく、ない。
 男が口火を切った。

「……リナはいいやつだよ」

 いい『やつ』?
 いい『女』ではなく、そう言うのか。

「明るいし賢いし話題は豊富だし」

 リナは眉をひそめて持っていたカップをテーブルに置いた。

「何が言いたいわけ?」

 まどろっこしい会話が続きそうで、リナは嫌気を露わにする。自分がそういった回りくどい言い方を好まないことを知らないのか、この男は。
 あらためて正面から男を見ていれば、そのわずかな仕草や表情にも苛立ちを抱き──もはや一挙手一投足が気に入らないことに気付いて、リナは少し驚いた。

「お前みたいなやつと一緒にいたら、毎日が楽しいだろうなって俺は思ってたんだ」

「実際のところは楽しくなかったってことね?」

 すぐさま言い返すと、端的に言うなよと男が苦笑した。
 そして溜息を吐く。

「……お前が、何を考えているのかわからない」

 わからない?
 ほんのちょっと付き合っただけの男に、自分を簡単に理解されてたまるものか。口に出す言葉なんて、頭の中で考えていることから比べたら十分の一にも満たない、ほんのちょっとの量なのだから。

 打算、そして見栄。
 いざ恋愛を始めようとした時自分の思考を占めたのは冷めた分析ばかりで、こんなものかとリナは拍子抜けした。浮ついた気分を上回る冷静な判断力でもって、リナはこの男にOKしたのだった。
 恋は盲目だとかあーだこーだ言われているが、結局のところ、状況に浸れるような甘ったるい感情なんぞ自分にはないのだと悟った。その思いは変わることなく現在まで続いている。
 理性的に「この男なら」と判断して付き合いだしたはずだが──もはや一緒にいることが良いことなのか悪いことなのか、リナにはわからなくなっていた。

(そんな、自分でもわからないことがこの男にわかるわけがない!)

「リナは笑ってるようで、笑ってない。
 俺とお前が一緒にいることが、なんだか不自然なんだ。
 ゼミの仲間たちと一緒にいる時には感じなかったのに、付き合いだしたら……違和感がある。
 お前は俺に打ち解けてないんじゃないか?
 心を開いてないよな?
 俺たちの間にはどこまでも平行線の溝が続いてるようで……疲れたんだ」

 男に先に言われたくなくて、リナは自ら言う。

「別れましょう」


 もう潮時だったんだ。
 こいつと一緒にいても、気を使ってばかりでちっともリラックスできやしない。
 それに──心を開けですって?
 あんたはどこぞの教祖か!


「友達同士だったほうが、俺たちは楽しかったな」

「そうね」

「リナのことが嫌いになったわけじゃないんだ。
 ただ俺たちが合わなかったってだけさ」

「そうね」


 ■ ■ ■


「素直じゃなくて悪かったわね!」

 すれ違う人も振り返るほどの声でぶつぶつと独り言を言う。
 男と別れて──二つの意味で別れて、リナは家路を一人歩いていた。
 日は落ちかかり、影が地面に長く伸びていく。

「あたしだって!
 頑張って気を使ってた!
 『彼女』らしくなろうって!」

 相手に合わせるなんてリナ「らしくない」ことではあるが、多少は世間一般に言われるカップル「らしく」あろうと、努めていたのだ。大人ぶって、ぎこちなく。
 子供と思われたくなかった。
 未熟と思われるような、自分のぼろが出てしまうのを防ぎたかった。
 だから、甘えなかった──甘え方がわからないということもあったのだが。

「あたしだって! あたしだって!」

 先輩後輩の関係から仲良くなって、気が合うねって向こうから言われて付き合い始めて。わけがわからないでも、それらしくしようと努力していたはずなのに。一体どこから間違っていたのか。

 ずしずしと地面を踏み鳴らし、リナは歩く。

 自分を変えたくはない。
 今まで築いてきた自分というものを誇りに思っているから。でも、それでも──彼好みの服を、彼好みの化粧をと自分を作って合わせて、微笑むようにしていた。互いの望む彼氏彼女の関係のためには、きっとこういった我慢が必要なのだと思って。


 何がいけなかったの! あたしが悪かったっての!?
 そんな複雑な女心もわからずに「俺たちは合ってない」ですって!?
 そもそも、何で、あたしが合わせなきゃなんなかったのよ!?


「あんな男!」

 歩道は公園の脇にさしかかる。
 路傍に転がる、おあつらえ向きの空き缶。

「こっちから願い下げよーっ!!」

 思いっきり空き缶を蹴り上げると、スカートのスリットがぎりぎりまで開いた。見事な放物線を描いてそれは公園の広場の向こう側にまで飛び──

「ぎゃッッ!!」

 すこーん、と良い音を立てて空き缶が何かにぶつかった。そして同時に叫び声。

「……何かに当たった?」

 リナはぎくりと身を強張らせた。
 『何か』と誤魔化して言ったものの、それは間違いなく『人』であろう。
 三十六計逃げるに如かず。
 リナはくるりとターンし、そしらぬ顔で立ち去ろうとしたが──ふと思いつく。

(ここで「大丈夫でぇすかぁ~?」と無関係を装い助けてあげれば感謝されること間違いなし、適当に偽の証言でもかましてあたしから疑いの目をそらしつつあわよくば何かお礼とか貰えちゃったりして!)

 瞬時にそこまで考えるとリナは勢い良くぐるりっ!と180度向き直り、植え込みの影にスキップ──をしたい気持ちを押さえて、駆け寄った。

「あの~、大丈夫でぇ……」

 ひょいっと生垣を覗き込んで、リナの動きが止まる。
 そこに突っ伏して倒れていたのは大柄な男だった。
 黒いスーツの上下を着ているようだ。そしてその頭の側には、凹んだ空き缶が転がっている。何よりも目を奪われたのは、その長い髪。どう見ても染めた色合いではない、ホンモノの金髪の輝きがあった。

「がっ、外国人!? そんなっ……空き缶ヒットで国際問題にっ!?」

 はわあ!ここまでは想定してなかったー!とパニックになるリナの目の前で、男が唐突にがばりと起き上がった。

 思い切り、正面から目が合う。

「………………」

「………………」

 二人は声もなく、ただ目をぱちくりとさせる。男の色素の薄い青い瞳は、夕日のせいでわずかに赤みを帯びていた。

 建物に今にも隠れようとする夕日の、オレンジ色の光が二人を照らす。
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