Remember my love. 8







ガウリイさんと別れたフロアは、壁も床も天井も全てが崩れそうに軋んでいた。大小のコンクリート片があちこちに転がり、床の亀裂は去った時よりも広く深くクレバスのようにぽっかり口をあけている。
粉塵の中、目を凝らしてフロアを見渡すと……あの蛇がところどころでのたうっていた。
が、それは脱出前よりも明らかに数が減っている!
ガウリイさんが戦った成果なのだろう。

その肝心の彼は――いた!!


「はあぁっ!!」

白刃を煌かせ、蛇に一閃を見舞う。
ガウリイさんはすぐに後ろへと飛ぶ。すると彼がいた場所に別の胴が降ってくる! 彼は避けざまに、さっと腕を動かしただけに見えたが。今のほんの一瞬で、蛇はまた体の一部を失ったのだった。

……っていうか人間?
彼の動きがあまりに速すぎて、見ていても思考が追い付かないんだけど!
ガウリイさんってばむちゃくちゃ強くない!? 異世界の住人はみんなああして強いのが普通なのか、それとも彼がすば抜けて強いのか。どっちなのかわからないが、この調子だったら、あの蛇もそう時間がかからずに倒せるかもしれない!

「ガウリイさん!」

「な……リナっ!!? まずい、逃げろっ」

え……?
彼が焦った声を上げる。
慌ててあたしに駆け寄ろうとするガウリイさんを遮り、蛇がその黒い胴を幾重にも重ねて邪魔をした。四方から彼めがけて一挙に蛇の体が収束する。瓦礫を弾き、粉塵を舞い上げながら建物を揺らしたその動きで、かろうじて点いていた店内の照明がフロアの端から流れるように順序良く消えていった。
店内は真っ暗ではないが、はっきり見えなくなり――


「………………っ!!」

全身が、総毛立つ。
ぞくりとさせる気配はあたしの背後から。
蛇の他にも魔族がいる、とガウリイさんが言っていたのを思い出す。
だったらあたしのすぐ後ろにいるのが、きっと――

「久しぶり。探したわよ、リナ=インバース」

落ちついた穏やかな声が、あたしの耳元近くで囁かれる。
――へえ、魔族ってのはしゃべったりもするものなのか。
後ろを取られ絶対絶命のピンチのはずなのに、あたしはやたら冷静だった。今度はどんな姿の化け物かと思いながら、ゆっくり振り返る。

背後の魔族はあたしの期待に反し、美しい女性の姿をしていた。
背が高いのに体は折れそうなほど細い。亜麻色の髪は肩のあたりでくるくると巻き、それをかきあげる指も恐ろしく繊細な造りをしていた。全体的に綺麗すぎて嘘っぽい。そう、まるでそこらに転がっているマネキンのような造り物の美しさ。

「リナーっ!」

蛇と戦いながらあたしを呼ぶガウリイさんの声がする。
さっきの比じゃない凄まじい勢いで蛇を斬っていくが、行く手を阻んで蛇は次々に立ちふさがる。そして、刹那その黒い鱗がざわりと光り、ガウリイさんに棘のようなものを飛ばす!
取り囲まれた周囲から一斉に放たれる棘を、彼は疾風の速さで瞬時になぎ払い、叩き落す。
すごい! あれだけの棘を全部……いや……服の腕や腰の部分が、じわりと赤く滲む。

「あんな服じゃガードにも限界があるわよねえ。
 ふふっ、私たちの話が終わるまであいつと遊んでいて頂戴」

「ガウリイさんっ……!」

「すぐに殺しはしないわ。
 リナ=インバース、お前を見つけることができたのもあの男がここに来たおかげだもの」

あたしを見つける?
さっきは『久しぶり』とも言っていたし、この魔族と『リナ』は再会……ということか。
魔族がさらに一歩、近寄ってくる。
その手があたしの首を目掛けてゆっくりと近付いてくる――睨まれた蛙のように逃れることができない。
鎖骨に魔族の指が触れた。

「これで魔力を封印したの?
 小賢しい真似してくれちゃって。アストラル・サイドからも追跡できなかったのよ」

あたしの鎖骨に掛かる細い鎖を引っ張る。その先には、記憶をなくしたあたしの唯一の所持品である黒い小石のペンダントトップ。この石が……魔力を封じている?

「隠れんぼはもう終わり。さっさと覚悟を決めなさい、リナ=インバース。
 敵対するお前を殺さず、我々と同じ存在に迎え入れてあげるって言ってるのよ。
 それなのにほんのちょっと脅しただけで、こんな遠くまで逃げ出すとは思わなかったわ」

「お、同じ存在って……魔族にするってこと!?」

「そう。人間ごときを、ね。
 これまでにない別格の扱いよ」

「何て――何と言って脅したの!? 『リナ』を!」

「今更何を言う? 何度も勧誘に来てあげたじゃない……まさか」

片眉を上げた魔族が掴んだ小石をぐいと引き上げた。それに顔を寄せ、まじまじと見る。
首の鎖が痛くてあたしは爪先立つ……鎖が切れてしまいそうだ。

「これに記憶まで封じたの?
 ……すごい念の入れようね。
 でも魔力だけならまだしも、記憶まで封じるのは愚かではなくって?」

魔族が言いながらあたしの首元を撫でると、鎖が音も立てずに切れた。
すぐ間近でにっこりと微笑む。

「覚えてないのならまた自己紹介が必要かしら。
 私はイゾルデ――今度は忘れちゃダメよ」

そのままっ……別の手であたしの首をぎゅうっと掴みたてる!
細い指の一本一本が食い込んできて――苦し――

「こんな記憶も魔力もないままじゃ役立たずじゃないの。封印を解いてあげる」

「……ぐぅっ」

息が詰まって声が出せない。意識が朦朧としてくる中、魔族・イゾルデの洞々とした嘘臭い笑みが視界に入るのが不快だった。

「――ちなみに、『魔族にならなければお前の男を殺す』って脅したの。たったそれだけよ」

…………!
ガウリイさん、を、殺すって?
さもなくば魔族になれ、と……。

それで、『リナ』は、逃げ出した。


「さあ、リナ=インバースの復活よ」

イゾルデが、指に挟んだ黒い小石にぐっと力を入れる。
あの小石が壊れたら……『リナ』の記憶が、今までの全てが、甦る?


ばちぃいっっ!!

「があッッ!!??」

突如、激しい火花が散る。イゾルデは弾かれたように、あたしと小石を手放した。
あたしはそのまま床に倒れ込む。

「……っげほ! ごほっ、ごほっ!!」

酸素を求めてむせるあたしの視線の先には、あの黒い小石が何事もなかったかのように静かに転がっている。さっきの火花はこの小石から放たれたようだった。
ずっと肌身離さず持っていたけれど、こんな現象――あたしは見たことがない。

再び、建物全体が激しい振動に襲われる。床にへばりつくようにしているあたしの眼前で、あの小石は揺れに合わせてころころと転がっていった。

「封印石ごときにあんな強力な封呪まで施しているとはね……」

忌々しげに呟き、手を押さえたままイゾルデはあたしを睨む。その手は先端が黒く焼け焦げていたが、次第に元のように再生していく。石を壊そうとしただけでこんなに激しく……『リナ』はよっぽど記憶が返らないようにしたいらしい。

でも、だからってここまで強力にしなくても!
『リナ』は記憶をなくした自分が魔族に襲われることは考えなかったの!?
――あたしだったら、それもちゃんと想定するはずだ。たぶん。
何か、記憶をなくしたあたしでも封印を解く方法があるのではないだろうか。
記憶喪失が『リナ』にとって予定外の事態でなければ、必ず何かが!

あれこれと考えを巡らせていれば、鳴動に混じってガウリイさんの剣を振るう戦いの音がする。 あの蛇はもう残り少ない! 奴が倒されるのも時間の問題だ――ただ、滅ぼされる寸前の蛇はさらに激しく暴れまわり、ビル全体を揺るがしている。天井からも次々に破片が降り注ぎ、瓦礫はあたりに陳列されていた商品を押し潰し、通路を塞いで退路を削っていく。

「リナ、リナーっ! 無事か!?」

「あたしは大丈夫!」

彼の必死な呼び声。
敵と崩壊寸前の建物の合間から見えたガウリイさんは――ひどい怪我!
しかし、戦う速さに衰えはないところから足や急所を庇って負った怪我なのだろう。避けられなかった棘の攻撃が、彼の皮膚に掻き傷を残し、服を所々赤く染め上げていた。

「ガウリイさんっ……!!」

思わず、彼に駆け寄ろうとするあたしの前にイゾルデが立ちはだかる。
くっ……!

「ふふっ、怒り、混乱、焦燥――美味いわよ、お前の感情は!
 それでも前の方が数倍美味しかったけどね」

「……どいてっ!!」

「今のお前に何ができる?
 まあ、封印を解かないと困るのはこっちも同じだけれど」

イゾルデは自分の顎に手を添え、くすくすと笑いながら考え込む。そして。

「――そうね、魔族の力をもってすら解封が無理なら。
 あの男が死ぬところでも見たら、ショックで封印が解けるんじゃないかしら?」

「なっ……!?」

その言葉にあたしは凍りつく。
ふっと笑いだけを残像と残し、イゾルデは掻き消える。
そして、次の瞬間ガウリイさんの前に立つ。

「やめてっっ!!」

彼を殺す? あたしの目の前で?
い……嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ!!
そんなことさせない、彼は死なせない!

動揺の中、あたしは咄嗟にそう思う、が……彼を守ろうにも今のあたしは無力すぎる。
ガウリイさんの側に行こうと瓦礫に足をかければ、あの蛇が立ちはだかって邪魔をし押し戻された――このまま、あたしは、見ていることしかできないの!?

ガウリイさんは――自分からイゾルデに立ち向かっていく!
イゾルデが不敵な笑みを浮かべて飛び退り、軽く指を動かす。すると瓦礫や粉塵には何も変化が起こらないというのに、ガウリイさんにだけかまいたちのようなするどい風が襲う! それが見えているのか、ガウリイさんは剣で辺りをはらう……が、さばききれなかったものが、蛇に負わされたよりも深い傷を彼に刻んでいく。

「ガウリイさんっ!」

あたしの悲鳴が、聞こえてるんだろう。
彼は片手を軽く上げて大丈夫だと合図を送る。
そこをまた――見えない風が襲う。身を捻り剣を振り、ガウリイさんはなんとか避けようとしているが、一瞬あとには、床にぱたぱたと、彼の鮮血が、落ちる。

――やめてヤメテ!
これ以上彼を傷つけないでっ!
どうか――『リナ』、今その力が必要なのに! 一体、どうすれば!?

「封印を、解かないと、ガウリイさん……!」

あたしは、慌てて床に屈み込む。
なぞっていくように視線を巡らせ――確か、あの辺り。

ずずん、と今度は下から突き上げられるように床全体が揺れる。
天井に入ったあちこちの亀裂から、欠片どころではない、大きなコンクリート片がごっそり落下してくる。ガウリイさんは怪我を負いながらも素早くそれを避け、がくりと膝を付き……

「リナー!!」

――あたしの頭上の天井がッ!!
逃げようもないほどの大きな塊となって、天井が落ちてくる。
見上げたまま、自分の押し潰される瞬間を待てば――眼前を黒い影が被う。

ごがっ!!

降ってきたコンクリートをすべて弾き飛ばし、あたしを圧死から救ったのは、あの蛇だった。
これは……皮肉にも、『リナ』を仲間にするまでは守ってくれるということなのだろう。

「あたしは無事だから――!」

ガウリイさんに自分の無事を告げるが、その言葉が終わらないうちにまたイゾルデの攻撃が彼を襲う!
早くしなければ……ガウリイさんが殺されてしまう!
あたしは再び床に這い、目を凝らす。瓦礫が増えてしまったせいで探しにくくて――絶望感に苛まれる。でも、今のあたしにできることはこのくらいしかない。

どこにも見当たらない……やっぱり探すのは無理かと諦めかけた時。
この薄暗い中、瓦礫の奥に、鈍く一瞬だけ光るものが――

あった!!
それは、さっき転がっていったあの黒い小石。
瓦礫の間に入り込み、今も時々の揺れに合わせて小さく左右へと動く。手を伸ばして鎖を鷲掴み、引っ張り出した。間髪入れず、床に置いたそれにあたしは手に取ったコンクリート片を打ちつける。

ばちっと、火花が散った。
しかし小石にはヒビ一つ入らない。
あたしは何度も何度も――あらん限りの力で破片を振り下ろす。
どうして……びくともしないの!

「お願い! 壊れて!!」

向こうからは小さくガウリイさんの悲鳴が――聞こえる。
あたしは半分泣きながら腕を振り下ろし続けた。
……嫌だ、こんなの嫌だっ!!
お願い、『リナ』!
彼を助けるにはどうしたらいい!?
このまま、なにもできないまま彼が殺されてしまったら――記憶が戻る前に、あたしは壊れてしまいそうだ。


「――ぐぁっ!」

「ガウリイさんっ!」

満身創痍のまま彼は剣を振るう。
ごめん、ごめんなさい。あたし、なんて役立たずなんだろ――


その時。あたしの視線が注がれる。彼の持つ、剣に。
ガウリイさんは確かこう言ってなかったか――『リナと見つけた』『何でも斬れる剣』と。
もしかして、『リナ』は……!


あたしは床の石を掴み立ち上がり、彼へ近寄れるギリギリのところまで駆ける!

「ガウリイさん! お願い!」

あたしが叫ぶと振り返り、こちらを向く。
力まかせに、あたしは彼に向かってそれを投げた。

「斬って――!!!」

封印石は鎖の尾を引きながら弧を描いて彼のもとへ飛び――ガウリイさんが空を薙ぐように剣を一閃させた。

石は斬られた瞬間に砕け散り四散する。きらきらと光を放って、消えた。
何千もの鈴を一度に鳴らしたように澄んだ音が――辺りに響く。

同時に、ビルの限界が訪れる。
四方の壁が一気にひしゃげ、ぐしゃりと縦に押し潰されていくのが見えた。
床、天井、全てがコンクリート片を吐き出しながら。フロアは崩落した。











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