Remember my love. 9得体の知れない黒い物体に絡み付かれ外壁をぼろぼろに壊されたビルは、階の上部の重みによりとうとう崩壊した。距離を持ちながらも周囲を取り囲んでいた人々の悲鳴、車のクラクション、そして轟きながら崩れゆくビル。辺りは騒然としている。 ビルからの粉塵が高く高く空へ舞い上がり、見渡す視界を全て灰色にする―― 視界が数メートルほどしかない瓦礫の上で、黒い人影がゆらめき、イゾルデが出現する。 この埃の中で一片の汚れもない髪を細い指でかき上げて辺りを見回し。 「あの男とのお遊び、もったいぶりすぎたかしら? これだけ崩れちゃあ人間はひとたまりもないものね……少々、楽しみが減ってしまったわ」 ふっと鼻で笑い、こちらへ向いて声を上げる。 「トリスタン! リナ=インバースは無事でしょうね? ここまで来て死なれたら無駄足にもほどがある」 あの蛇魔族の名前はトリスタン、というらしい。 だからどうというわけでもないが――滅ぶ前にこのあたしに名前を知ってもらうことができて良かったじゃないの。 だんだんと視界が晴れ、イゾルデは霞みの向こう、静かに鎌首をもたげたまま動かないでいるトリスタンを見つける。 「……リナ=インバースは?」 ――悪夢の王の一片よ―― 蛇はゆらゆらと小さく不安定に動く。 「まさか……見失ったの!? くっ、押し潰されて死んだか?」 イゾルデは動揺を隠さずに数歩こちらへ歩んだが、ぴたりと立ち止まる。 未だ立ちつくす蛇魔族に、やっと異変を感じ取ったのだ。 ――世界のいましめ解き放たれし―― 「……トリスタン、どうした?」 ただゆっくりと傾いでいく。 そして、その馬鹿でかい体の中心から、左右が『ずれて』いった。 「これはッ!?」 体の端から次々に黒い砂となり、それが空にざらざらと散る。 蛇の鳴き声なんて聞いたことないが、もはや黒い塵の塊となったトリスタンは、最期に引き攣れた獣の断末魔を残して……溶け消えた。 奴の背後に立っていたあたしとガウリイの姿が露わになる。イゾルデが瓦礫の上に現れる前、既にトリスタンはガウリイによって一刀両断されていたのだ。 ――凍れる黒き虚無の刃よ―― 「なぜっ……どうやって脱出した!?」 あたしは呪文を唱えながら、口の端を上げて笑う。いまさら何を言っているのか。 あたしの復活はイゾルデも望んだことではないか。 「リナがいれば脱出なんて簡単だろ? ……ちょっとぎりぎりでヤバかったけど」 そう言い、斬妖剣を構え――ガウリイがイゾルデに向かって走り出す! 積もる瓦礫が邪魔だが、あたしも彼の背中を追って続く。 ――我が力 我が身となりて―― 「人間ごときがぁっ!」 イゾルデの相貌が憤怒に醜く歪んだ。 全身をぞわりと逆立て、手を大振ると風の刃があたしたちを襲ってくる。が、それはいともたやすくガウリイの一振りによってあしらわれた。 ガウリイ、あんたまだ怪我だらけだっつーのに。 さっきのダメージを治す時間はなかったのだが、ガウリイはそれでもいつもに劣らぬ……いや、増した速さでイゾルデとの距離を一気に詰める。 ――共に滅びの道を歩まん―― 「っこの……!!」 風の刃を出そうと掲げたその手めがけ、ガウリイは斬妖剣を袈裟懸けに振り下ろす! ざんっ! 「があぁぁぁぁぁっ!」 その一撃で片腕を落とされたイゾルデが悲鳴を上げる。胴の半ばまで剣はのめり込んでいたが、とっさの反撃を素早く避けてガウリイは横に飛んだ。 ――神々の魂すらも打ち砕き――!! 「神滅斬!」 空気を震わせるすさまじい音を伴って、あたしの手の中に黒い闇が集まり。 虚無が、現れる。虚無の刃が。 「ぐああぁぁっ! よくもぉぉっ!!」 怒声を上げて咆えるイゾルデに、あたしは闇の剣を振り下ろした。 そして――刃は手応えもなく奴の細い体を切り裂く。 後に続くイゾルデの絶叫。 「あぐぅぁあああ! このままですむと思うなあぁぁっ!」 「往生際が悪いわよ」 怨嗟の言葉を吐き続けるイゾルデに、あたしは再び虚無の刃を返し―― 「私を倒しても、死ぬまで……ずっと、ずっと、お前たちは魔族に狙われつづけるのよ! 安楽なぞ一生訪れない! 苦しみながら己の選択を後悔するがいい! アハハハッ!」 頭上から、掲げた刃をひといきに振り下ろす。 同時に嘲笑が途絶えた。 一年前のあたしをあれだけ苦しめた魔族――イゾルデは、消滅したのだ。 あたしは魔族の散った空間をただ見る。 「リナ」 瓦礫を踏みしめ、側に来たガウリイがあたしの名を呼んだ。 懐かしいその声その言葉。 ……もう逃げられないなあ。 イゾルデの言っていた台詞を思い出す。 隠れんぼは、終わり。 でも……正直、ガウリイがあたしを見つけられるとは思っていなかった。 絶対に見つからないようにするため、異世界にまで逃げてきたのだあたしは! それでも追っかけてきたガウリイの根性に敬服するが……その一年分彼は怒ってるだろう、たぶん。すごく。どんだけ叱られても、あたしは文句を言えない……。 誤魔化すわけじゃないけれど、ガウリイにくるりと向き直り、あたしは口火を切る。 「えと、その……黙っていなくなって悪かったわね! 探しに来てくれて、う、嬉しいわ。ありがとっ。 記憶を封じちゃっててさ、久々に会ってもちょっとわかんなかったのよね…… は、ははは……いろいろと理由はあるのよ? 説明すると長くなるけど! あ、その前に怪我治さなきゃ! あんたヒドい有様よ! 治癒だから応急処置程度になっ――」 「リナ」 ……静かにあたしに語りかけてくる。優しく、まるで小さな子を諭すように。 そしてまっすぐに見つめてくる瞳は、あたしが『葉月』の時にはなかった、真に穏やかな色をたたえている。 「……ガウリイ」 「おかえり」 ……こいつは……どうして……あたしがさんざん思い悩んできたことを、笑顔ひとつで忘れさせそうにするんだろ。その一言が、あたしの体、魂のすみずみにまで染み渡る。 やっぱり、あたしにとってガウリイはかけがえのない存在で。 ガウリイに応えようとしたけれど、胸が詰まって言い出せない――顔を合わせたまま躊躇うあたしを、ガウリイは微笑みながら引き寄せた。 瓦礫の上であたしたちは抱き合う。 離れていた時間と距離を全て埋め合わせるように。
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