灰鎖 8

 リナはふと月を仰ぎ見る。
 街から遠く離れた地で見る月は小さく、ぽつねんと浮かんでいた。もはやそれが見慣れた空だった。
 侵攻作戦も大詰めだというのに、この戦いの日々が果てなく続くように感じられた。このまま一生、戦場にいるような気すらする。街で自分はどのように生活していたのかはっきり思い出せなくなっている。もともと希薄に人付き合いをして単調に毎日を過ごしていたのだ、あちらの生活にはもう実感がない。リナの日常はすでにここにある。


 天幕に入り、鎖に繋がれているガウリイが変わらず中にいるのを認めてリナはほっとした。最初はただなにとなしに手に入れたものなのに、今は奇妙な独占欲があって手放せなくなっている。
 彼がいなくなったあの時、どうしてああも衝動的に動いてしまったのか自分でもよくわからない。これは一時的なもので、おもちゃに執着する子供のようにいつかは飽きたりするのだろうか?
 この胸に渦巻く、焦れるような感覚が何なのか教えて欲しい。

「……リナ」

 ガウリイの、どこか安堵した声。
 リナが生きて帰ってきたことを安心している──敵なのに。

(どうして、この男は)

 リナは無言で獣油に小さな火を灯した。ちらりとガウリイを振り返れば、まっすぐにリナを見ていた。待っていた、とでも言いたげな穏やかな様子にリナは泣きそうになる。
 なぜそんな表情ができるのだろう。自分の立場と、リナがエルメキアを苦しめている張本人ということを忘れたわけじゃないはず。

「待ち伏せの部隊は殲滅したわ」

 口の端を上げ、とげとげしい顔つきでリナは言った。ガウリイがはっと表情を変えるのを見てずきりと胸が痛む。不意に景色を思い出す──部隊のいた痕跡を少しも残さない、荒野となった森――すると魔法を使った直後のように体が重くなり、頭には鈍い痛みが響く。思い出すだけで怠くなるだなんて、よほど疲れているのだろうか。
 リナは頭痛のためにゆっくり床に座り込んで、装備を外した。

「……手応えもちっともなかったわ。ほんと、こんなお粗末な戦いばっかりで、帝都もすぐに陥落するんじゃないかしら。どうしようもない軍隊にしても、少しはやる気を見せて欲しいもんだわ」

 鼻で笑って貶していたら、じゃらりと鎖を鳴らしてガウリイの腕がリナへと伸ばされた。指先が届くぎりぎりの距離にリナの頬があって、掠めるように撫でてくる。

「………………?」

「大丈夫か?」

「なに、が……」

「お前さん、震えてないか? 顔色もすごく悪い。早く休んだほうがいい」

 こんなふうに労われることなんて、味方からもなかった。
 それをなぜガウリイが。敵が。自分に。エルメキアを滅ぼそうとする自分に。

「やめて!!」

 リナはガウリイの手を激しく弾き飛ばした。
 自分の手で顔を覆う。手袋をしたままの指先がこきざみに震えていた。

「……新兵とか、戦いすぎた奴がそうなるのを見ることがある」

 リナは顔を覆ったまま頭を振った。
 ガウリイの優しい声が苦しい。いつもの冷静な自分でいたいのに、優しさが隠された弱い部分をこじ開けようとしている。

「馬鹿にしないで!
 あんたの同情なんかいらない」

 ──嘘だ。
 戦場の空の下、なぜかガウリイのことをよく思い出していたはずだ。荒地を殺伐と行軍しながら彼の微笑みをまた見たいと願った。声を聞きたかった。お帰りと言って欲しかった。
 そんなことを求める資格なんて自分にはあるはずもないのに。

「リナ、一人で背負おうとするな。だから苦しくなる」

「じゃあどうしろっていうの……!
 何もわからないくせに、あたしに指図しないでよ!!」

 悲鳴のように叫びながらリナはガウリイに食って掛かる。迫った瞬間にガウリイの手が伸ばされ、リナは驚いたが避ける暇もなかった。腕を掴まれると強い力で引かれてしなやかに抱きしめられる。リナを落ち着かせようと大きな手が背中を軽く撫でた。

「なぜリナだけがこんなに苦しまなくちゃならない?
 ……もう、戦うのをやめろ」

 リナはせわしなく息をした。そうしないと喉が震えて、嗚咽とともに涙がこぼれてしまいそうだった。

「あたしを止めたければ、殺すしかないわ」

 ガウリイが首を振る。間近で彼の髪がリナの肩に、頬に揺れる。近すぎる距離にたじろいで胸を叩いたが、腕の拘束は緩まない。

「オレはお前さんに戦うのをやめて欲しいだけだ」

「そんなこと言いながら、あんただって、あたしが死ぬのを望んでるんでしょ?」

 ガウリイはわずかに震えたようだった。
 今、ここで彼が殺す気になれば、ことは一瞬で終わるのだろう。それが彼にとって一番良いことのように思えた。リナは許容を示すように体から力を抜いて、なげやりに腕をぽとりと落とす。
 背中にあったガウリイの手がリナの顔に触れた。かけらほどの殺意もなく、大きな手がそのまま顔を包むようにしてガウリイの顔が近づいてくる。唇に唇が触れてリナは目を丸くした。

「自分の言葉で自分を傷つけるな」

「……わからない」

 震えと頭痛はいつの間にかやんでいた。
 抵抗する気力も湧かず、リナはガウリイの抱擁をそのまま受け入れた。彼の言葉も繰り返される口付けもよくわからない。人の熱を唇で知る距離の近さにただ驚いた。

「なんでこんなことするの」

「オレがこうしたいから。
 なあ、お前はもっと自分を大事にすべきだ」

 リナは小さく吹き出した。ガウリイが真剣な表情をしてるのに、歪んだ笑みしか浮かべることができない。

「大事に、って。何言ってるの? あたしを生かしてもろくなことしないわよ。人を殺し続けるだけ。ずっと、ずっと……死ぬまで」

 ガウリイが屈んでリナの胸元に額を寄せると、深く溜息をついた。

「リナが本当に残酷な奴なら殺せたさ。笑って人殺しできるような奴だったなら、オレは迷わず殺した……でもリナは違う。だからオレにはできない」

「優しすぎるのね、あんたは」

 胸元の金の髪を撫でてリナは小さく呟く。
 彼にこんなに優しくされても、自分が変われる気がしなかった。

 あたしは、もう許される人間じゃないから──

「もうやめろ。このままじゃリナの心が潰れてしまう。
 オレは……リナが好きなんだ」

 リナは目を閉じて、その言葉を胸に染み込ませる。
 言葉のぬくもりがもったいなくて、何にも変えがたい宝物を思いがけなく貰ってしまったみたいで、嬉しさの前に戸惑いがある。そして、彼の想いは自分には相応しくないものだから、かえって切なかった。

「どうしたらお前を『ここ』から解放できる?」

「もう後戻りできないの。あたしは生きてる限り、戦うしか……」

 弱々しく呟くリナを逃がさないよう、ガウリイは肩から抱え込む。片手は腰から背中を撫で上げて、ぞくりと背筋を這う感覚にリナはわずかに息を荒げた。

「リナ……リナ、オレを見ろ」

 言われ、洞然とした眼でガウリイを見て──まるで全てを見透かすような彼の瞳にリナは怯える。強がりも虚勢もできず、リナはただ瞼を震わせた。

「敵なのに、あたしを抱きたいの?」

「そうだ。嫌か?」

「……悪くない」

 吐息のままリナは苦しげに言った。髪や頬に唇が触れ、耳を伝い、首元に降りてくる。指よりも柔らかな所作に追い詰められてリナはガウリイの首に縋りついた。身体に手が這い、まさぐられるたびにガウリイの項を指先でぎり、と引っかく。
 服を脱がされれば二人に纏るのは鎖だけ。触れる肌は熱いのに、流れる鎖がひやりと冷たかった。ガウリイはどこまでも優しくて、もどかしいほどだ。顔を見られたくなくて、リナはガウリイの胸に顔を押し付ける。
 今まで、傷つけるか傷つけられてばかりで、こんな甘い痛みがあることを知らなかった。

「このまま、死んでしまいたい」

 熱い吐息にまぎれた呟きは彼に聞こえただろうか。
 まなじりから涙が零れて頬を伝い、自分が泣いていることにリナは気付いた。最後に泣いたのはいつだったかも思い出せないくらい、久しぶりに流す涙だった。
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