灰鎖 4

「モール大橋を守備する部隊を叩いたわ」

 襲撃から戻ったリナは自分の天幕で湯浴みをする。温めた湯で戦いの汚れを拭い取るように肌を強く擦った。魔法では返り血を浴びるはずもないのに、髪の先まで血塗れているような気がした。

「ランツの隊だ……生きてるかな、あいつ」

 簡易に作らせたついたて越しにガウリイのつぶやきが聞こえる。

「深追いはしなかったけどきっと無事じゃないわね」

「あそこはだだっ広くて隠れる場所が少ないからな……。
 だから増強して壕をもっと作れって進言してたんだがなあ」

「なにしたって結果は変わらなかったわよ」

「………………」

 リナの冷たい返答に彼の言葉はなかった。
 軽く身体を拭いて、生成りの巻頭衣をかぶると帯を結ぶ。

 ついたてをのけるとガウリイは手桶の湯で身体を拭いて清めているところだった。
 初めの頃は浄結水で水をぶっかけたりもしたが、ずぶ濡れになったガウリイは不服そうにするし片付けも手間取るので、今は湯を分けるようにしている。

「何も言わずについたてどかすなよ。オレが素っ裸かもしれないじゃないか」

「別にあたしは気にしないわ。
 髪、といて」

 与えられた粗末な服をもそもそと着るガウリイに櫛を手渡すと、リナは彼に背を向けてすとんと座り込んだ。仕方ない、と言いたげに息をついたガウリイの手がリナの髪に伸びる。
 湿った髪は一房ずつすくわれ、櫛が通される。リナの髪は細く癖毛だから、雑にすると櫛の歯に絡みやすい。髪を引っ張られるたびに怒ったのでガウリイの手は慎重にリナの髪をすくい上げていた。
 鎖が静かに鳴る。抵抗も逃げる意思も見られないからと、もう手枷は外して手錠に替えてある。

 彼を奴隷として引き取ったものの、そう広くもなく訪れる者もほとんどいないこの天幕の中では特にさせるべき労働も見あたらない。だから、こんなふうにたわいも無いことをさせるか話し相手にするくらいだ。
 食事もきちんと与えているし鎖に繋がれている以外は不自由もない。捕虜になったときのむごい扱いに比べれば、天地の差がある。
 彼自身は現状をどう思っているのだろうか。あきらめているようにも見えるし、のらりくらりとしながら逃げるタイミングを計っているようにも見える。リナにはその胸中がよくわからなかった。

「橋は落としたのか?」

「しないわよ。そんなことしたら侵攻が遅れちゃうじゃない。あたしとしては橋ごとまとめて攻撃したかったけど、使えるように残せって命令されてたし」

「だよなー。河を利用すれば物資補給にも便利な場所だ」

 ガウリイの小さいため息をリナは背中に聞いた。
 彼が憂いているのは、敗走する仲間の安否か、故国の末路か。

「──あたしが憎い?」

「お前さん、何度もそれ訊くよな……仲間が傷ついたり死ぬのは、そりゃ悔しいし悲しいさ。
 だから敵のお前さんが憎いかといったら、それは違う」

「変な奴。あんたの国を苦しめている張本人を目の前にして、よくそんなふうに落ち着いてられるわね」

「お前さんもオレも、軍人だから戦った──それだけだろ。個人を憎む筋合いじゃない」

「そんなもんかしら」

「じゃなきゃ、オレだってどれだけの人間に恨まれてるかわからない」

 穏やかな虜囚は、すぐには剣豪のイメージに結びつかない。
 しかし体に残る無数の古傷は幾多の戦いを乗り越えてきたことを示している。鍛え上げた彼の腕なんて、見比べればリナの腕が棒切れのように見えてしまう。その腕で今までにどれだけの武功を立ててきたのだろう。

 そんな彼に容易く背中を見せて、無防備にすぎることはわかっていた。素手でもガウリイが本気になればリナは殴られるなり絞められるなりして、ろくな抵抗もできずすぐ殺されてしまうに違いない。
 でも、おそらく不意打ちはしてこない。
 ガウリイはきっと、戦うときには正面から戦うとまず宣言してくるだろう。

 彼ともし本気で戦う状況になったとしたら、どのように戦法を組むべきか?

(遠距離だったり、こっちの位置を悟られてないのならあたしに分がある。近距離戦で一対一の場合は呪文詠唱の時間をどうかせぐかが重要になる……)

 湯浴みをして汚れを洗い流しても、まだ戦闘の気分は抜けきっていないらしい。
 リナはぼんやりと物騒なことを考えながら、ガウリイに梳かれて肩に流れる自分の髪に目を落とした。





 頬がくすぐったい。むず痒い。
 背が温かい──でも横になってはいない。
 いつの間にか寝てしまっていたらしい。
 どのくらいこの姿勢で寝ていたのだろう。
 一旦寝ると、疲れを思い出したかのように、重いだるさが体に残る。

 魔力を消耗した後はすぐ眠くなってしまっていけない。
 幾度かぱちぱちとまたたきをして、リナは背の温かさがガウリイだと気付いた。ゆっくりとした寝息と一緒に起伏するのを背に感じる。

 リナはきょとんとしてあたりを見回す。
 頬にかかるのはガウリイの髪だ。そしてすぐ間近の寝息。
 ガウリイの手足がリナを囲うようにしている。リナは胸に背もたれて寝ていた。彼の手なんて、手錠がついたままリナの正面にぐるりと回されている。

(……こうされても気付かなかったわけ?)

 自分だけでなく、ぐうぐうと暢気に寝ているガウリイにも呆れ返って、は、と息をつく。

「こんなにふぬけちゃ、ダメじゃない……」

 いくらガウリイが不意打ちはしないだろうと確信していてもこれはひどい。
 この変わり者に毒気を抜かれて、いつの間にか緊張感がどこかに行ってしまっている。

 そこから抜け出すためにリナは身を起こそうとした。だが、彼の腕がなかなか重い。しかも手錠のせいで両手をいっぺんに持ち上げなければならない。
 あれこれしてみたがガウリイはむにゃむにゃと言うだけでちっとも起きないし、リナは戦いの疲れもあって気力が早々に萎えてしまい、諦めた。
 手っ取り早く殴って起こそうか、などと考えながらもガウリイにもたれる。
 ──温かい。案外楽で、居心地もいい。

(こういう使い方もいいかもしれない)

 頬にかかる邪魔な金髪を払いのけて、再び目を閉じた。


 ■ ■ ■


 天幕の中では馬鹿みたいに穏やかな日々があるが、リナの出撃はたびたびあった。
 リナの身軽さは奇襲に向いているし、エルメキア軍が予想進路を変えて不意な場所に現れても、すぐに迎撃できる。
 隊の出撃・撤収をするには時間と糧秣がかかる。その点、リナは身一つで迅速に動くことができた。それに加え、的確な判断力と友軍もが恐れる魔道の力がある。
 状況によっては、部隊が駐屯していてもリナは昼夜問わず戦闘に出るのだ。

 今回も、斥候が見つけた移動中の敵軍が、布陣を敷く前にリナは強襲をかけた。後は自軍の部隊が追い討ちの攻撃を仕掛ける手筈になっている。
 この戦った敵の中にもガウリイの大事な友や知り合いがいたのかもしれない。でも、もう奴隷となってしまったガウリイが彼らの消息を知ることは今後ないだろう。

 エルメキアの守勢は日を経るごとに弱まっている。
 帝都侵攻もそう遠くない。

(あたしは、勝つわ)

 戦争が終わったらこの長い軍営生活も終わりだ。
 はれて国に帰れる──帰っても、リナを待つ者などいないけれど。
 このままガウリイを伴い、首都にあるあの閑散とした自分の住処に帰ったら、どのような生活を送ることになるのだろう。リナにはなかなか想像がつかなかった。
 それにガウリイは、エルメキアの、彼の大事なものを滅ぼしつくしても、それでもリナを憎まずにいてくれるだろうか。



 疲労で足が重い──自分の天幕へ向かいながらリナは表情を歪めた。
 翔封界を使いすぎたせいかもしれない。天幕に戻ったらすぐにでも寝てしまいたい。将軍との面会も断って、しばらく泥のように寝ていよう。

 しかし、天幕に近付いたリナは違和感を感じた。
 軍営地の端に張られたリナの天幕。一見、何の変わりもない。だがいつもと違う──天幕の入口をぱっと開けて、リナは立ち尽くした。
 中も、全てリナが出て行った時のままだ。そこにガウリイがいないこと以外は。
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