灰鎖 10

「どいて! それ以上近寄らないでっ!」

 突然の事態で兵士たちが狼狽しているところに、リナの切羽詰った金切り声が響く。
 リナが──あの死神とも恐れられる魔道士のリナが、捕虜の男に羽交い絞めに抱えられ、囚われていた。
 リナを引き摺りながら、ガウリイはじりじりと馬が繋がれている場所に近付く。

 壊された手錠がついたままの片手に短剣を持ち、リナの顔のすぐ横にぴたりと押し当てて威嚇する。兵士たちが取り押さえるために距離を縮めようとすると、鋭い目線で威圧され、その殺気に誰もが動きを止めた。
 脱走の場面に居合わせてしまった兵士たちは遠巻きに見守り、どうしたものかと互いに目配せするばかりだった。こういうとき指示に戦いにと頼りになるゼルガディスは、折りもあろうに作戦伝達のためについさきほど出立して不在だ。

 じたばたと暴れるリナをガウリイはものともせず、腰から抱え上げると魔道士の両足が地面から浮いた。それほどに彼の力は強く、彼女は軽いらしい。
 ガウリイの険のある声が響く。

「こいつの命が惜しければ道をあけろ。
 そこのお前、馬に鞍を乗せろ! 早く!」

 おろおろする連中を睨み──ガウリイは短剣を持つ手を無造作に軽く横に動かした。
 ひゅ、とリナが驚いて息を呑む。それから彼女の頬にじわりと一筋の赤い線が走った。滲み出した血が玉を結んで頬を伝い落ちる。短剣はリナの喉元に少しの隙間もなく押し当てられ、冷たく細い刃が薄い皮膚をゆっくり押していくのをリナは感じた。

「早くっ! こいつの言うとおりにして!」

 リナの言葉で弾かれたように兵士は動き出し、慌てて馬に鞍を乗せた。がちゃがちゃと慌しく金具を繋ぎ止めるやいなや、ガウリイがどけと押し退ける。その際に剣をするりと奪われて、慄いた兵士は転がるようにその場から逃げた。
 遠巻きに見る兵士たちを牽制しながらガウリイはリナを馬上に乗せ、自分も飛び乗る。手綱を引いて頭の向きを変えると、長い髪がざあっと流れる。

「こいつは、オレが逃げきるまでの人質になってもらう」

 言いながら拍車を入れると馬は一気に駆け出す。陣地を囲む柵も飛び越え、あっという間に遠くへ駆け抜けていった。土埃とともに走り去る馬を呆然と見ていた兵士たちは、その姿が豆粒ほど小さくなるとやっと動き出した。

「脱走だ! 魔道士殿が連れ去られた!」

 恐ろしくて関わり合いになりたくない魔道士ではあるが、彼女が侵攻になによりも重要な戦力であるということは心得ているらしい。兵士たちは次々と馬に飛び乗り、急ごしらえに追っ手を編成した。


 まず、一直線に帝都には向かわず、裏をかく経路で馬を走らせて森に入った。辺鄙な場所にも見えるが、このあたりから帝都への経路をガウリイは詳しく知っている。
 それに万が一追っ手に見つかっても、地の利があるここであれば、如何様にも逃げたり身を隠したりすることができた。
 しばらく休みもなく馬を走らせたところで、追っ手がないことを確認しガウリイが馬の足を止めた。
 先に馬から降り、次にリナの腰を支えて柔らかい下草の生える地面へそっと降ろす。
 小川で馬に水を飲ませ、もうちょっと頑張ってくれよなと鼻面をなでた。
 陣地から出たときは明るかった空は次第に薄暗くなろうとしている。リナが弱く魔法の光を灯し、あたりをぼんやりと照らした。
 一息ついたところで、ガウリイが抜き身のまま持ち続けていた短剣を差し出し、受け取ったリナがくすりと笑う。

「ふむ、なかなかの演技だったじゃないの」

「お前さんに言われたとおりにしただけだ」

 苦々しく言うとリナの顎を指先で上げ、その顔をまじまじと覗き込んだ。そしてリナの頬を走る傷に眉を顰める。

「浅く斬りはしたが痕が残っちまうぜ。早く治療したほうがいい」

「わかってる。あとですぐやるわ」

 手を払って、リナはむずむずと痛痒くなってきた頬に指で触れた。ガウリイを見上げると薄い木漏れ日と光が彼を照らし、輪郭を霧の中のように曖昧に縁取っている。こんなちっぽけな傷にまるで自分が大怪我をしたように痛そうな顔をして、斬り付けたのがよほど不本意だったのだろう。リナは気にしないで、という言葉の代わりに彼の胸を軽く小突いた。
 それから、ごくなんでもないことのようにさらりと告げる。

「じゃ、ここで別れましょう。あたし、陣地に帰るわ」

 驚きにガウリイが瞠目した。

「……は? なに言ってんだ!? リナも一緒に来いよ!」

「バカね、行けるわけないでしょ。あたしは敵なのよ」

 笑い飛ばしたあと、リナは人差し指をぴっと立ててガウリイに言い含める。

「いーい? 戻ったら大切な人や民を連れて、本格的な戦闘が始まる前に帝都からできるだけ離れるように。もう時間はこれっぽっちも残ってないわよ」

「リナ、オレとエルメキアに行こう」

「ふ、ふふっ……あたしがどれだけあんたの仲間を殺したと思ってるの?
 だめよ。あたしはゼフィーリアで生きていく」

 それは、自身にも言い聞かせているようだった。

「来いよ! 戦争で仕方なく戦ったって言えばきっとわかってくれる」

「仕方なくって……エルメキアの現状は何割かはあたしのせいなの。間違いなく。そんな敵を誰が迎える? まさかあんたが『ゼフィーリアからもエルメキアからも守ってやる』なんて殊勝なこと言ってくれるわけ? そんなことしたら、あんたまでみんなから恨まれちゃうわよ」

「……オレは、リナがこのままあそこにいて幸せになれるとは思えない」

「あんただってもう先のない国にわざわざ戻ろうとしてるじゃない。賢い行動だとは到底思えないわ」

 ガウリイは沈黙する。リナの意思は変えられないようだった。どれだけ「戦うのをやめろ」と言っても聞き入れないように、リナは自身のことではなく背負っているもののことを考えている。

「お互い逃れられないわ。結局あたしたちは縛られてるの。
 それに……あれでも、あたしの生まれ育った国ってことに変わりはないわけだし」

 ガウリイがエルメキアに戻りたいと語ったときと同じ言葉をつぶやいた。
 リナはガウリイの胴に細い腕をまわして抱きついた。ガウリイも彼女をぎゅっと抱きしめる。胸の中にすっぽりと収まる、小さな体だった。

「あんたはあんたの国に、あたしはあたしの国に戻る……元通り、それでいいじゃない。そこしか居場所がないんだから」

「でもお前を残しておけない」

「あたしは一人で生きていけるわ。これまでそうだったし、これからもそう」

 爪先立つリナにガウリイは屈み込んで、唇を重ねた。
 顔が離れるとリナは笑顔を見せる。ガウリイが初めて見る、穏やかで澄んだ笑顔だった。魔法の明かりに瞳は深い夕日の色を見せて、ガウリイは見惚れた。

「……さよなら」

 一歩離れる彼女を追いかけようとしたガウリイはつんのめるように体を強張らせた。身動きが取れない。リナを掴もうとしても腕は伸びず、足は地面に杭で打たれたように一歩も動かすことができなかった。

「な!? なんだこれは!?」

「『影縛り』よ」

 ガウリイの背後──彼の薄い影に突き立つのは、リナの短剣。

「あたしは陽動で向こうの森へ行く。あんたはあたしと戦って死んだってことにするわ。そしたら追っ手もなくなるだろうし。
 魔法の明かりが消えたら呪文も解けるから、エルメキアに行くのよ」

「リナっ!」

「追ってこないでね。逃がすための狂言ってバレちゃったら、あたしの立場が悪くなる」

 言うと、リナはそれきり振り返りもせずに木々の中へ姿を消した。
 リナを呼ぶガウリイの声が虚しく森に響く。しばらくして、リナの陽動か遠くから爆発音と黒煙が上がった。
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