後宮伝説 4

 墨を手にして硯に向かう。精神を統一し指先に意識を込め、墨岡に添って手を滑らせると硯石はしゅしゅと硬い石声を立てた。雑念を振り払うかのように手は単調な動きを繰り返していたが……ぴたりとその動きが止まる。そして墨を持つ手はぷるぷると震え出した。
「──だああああぁぁぁっ! こんなことしてても落ちつけないわよっ!」
 墨を放り出し、リナは卓から立ちあがって自室の中をうろうろと歩きまわる。
「あああああ。どうしよどうしよ」
 ふと、部屋の隅の棚に積まれた本が目に入る。それが視界に入ってしまうとリナはさらに困惑し、顔を青くした。
「あたし、なんでこんなトコに来てしまったのよおおおぉぉぉっ!!」


 自称皇帝の美丈夫に会ってから数日が経っていた。彼から非常識、子供扱いされてむっとしたリナはその鼻をあかそうと渡された本を全て読むことにした。しかし読み進むにつれ、リナは後悔し始めたのだった。
 ──後宮に来てしまったことを。
 今まで知る機会のなかった男女の営みとは驚くべき内容で、小さい頃から『賢い子』と誉めそやされ、知識の多さを自負もしていたリナは、それについてまったく知らなかったことに大きな衝撃を受けた。これらの本の内容は嘘でもかかれてるんじゃないかと独自に調べてもみたが、今まで興味がなく目に入らなかった分野について、書かれていることはどれも同じだった。
 その分野について無知だった自分に舌打ちしたいが、現在の問題は自分が寝泊りしているこの場所が後宮であるということ。
 皇帝に身をもって仕える女性が集う後宮に、自分は何も知らずに飛び込んでしまったのだ。これではあの美麗な皇帝が自分を子供扱いするのも実にしょうがない。
「金がもらえて、三食タダ飯昼寝付き……これって全部『オマケ』みたいなもんだったのね」
 身体と引き換えの、と小さく呟く。
 しかし、希望もあった。なんせここには千人以上の女性がいるのだ。よりどりみどりの美女がいる中で、皇帝がわざわざ無知で子供な自分に気を寄せることもあるまいと思った。書庫では「またな」なんて言われたが、そこでちょっかいをかけられたのは気まぐれだろうし、もはやリナのような宮女がいたことすら忘れているかもしれない。

 ──と、思っていたのだがしかし。
 先程、宦官から思いもかけないことを告げられたのだ。「今夜、皇帝陛下がぬしの部屋にご来訪される。心しておけ」と。
 リナは驚愕し「来てもらっては困る」と言ったが、宦官から「困るとは何事だ!」と叱られてしまった。逆に「至誠の心で陛下に捧げ尽くし奉仕せよ」と説教される始末。宦官が去った後に部屋から抜け出そうとしたが、皇帝が来るせいか扉の前には見張りの者が待ち構えており「部屋でお待ちなさい」と外出を咎められる。
 にっちもさっちも行かなくなり、平常心を保とうと墨を握ったがそれだけで落ち着くはずもなく、リナはうろうろと部屋を歩き回っていたのだ。
 宮女になると決めたのは誰でもなく自分自身だ。いつ、どんな場所でもリナは思うままに行動してきた。『後悔』なんて己の辞書にはないはずの言葉だったのに。
「はやく、ここから逃げなくちゃ……」

 庭に面した窓を開け放つとさあっと夜風が部屋に舞い込む。風を浴びると長い裾をつまみあげて、ひらりとリナは窓枠に飛び乗った。しかし長すぎる裾が邪魔をする。リナは着慣れない服の裾を踏んでしまっているのに気付かず、先に飛ぼうと背を伸ばすとバランスをくずしてしまった。
「わあぁっ!」
「おっと、大丈夫か」
 後ろからぐっと腰を掴まれ支えられて、リナは顔から墜落するところを免れた。
「うみゅ~、あ、あぶなかったあ……」
「おいおい気をつけろよ?」
「うん、ありがと」
 腰を掴まれたまま後ろを振り返ると、皇帝がにこにこと微笑を返してくる。
 「………………なっ、なんでいきなりあんたがここにいるのよーっ!?」
 その手を振り解こうとリナはばたばた暴れたが、そのまま室内にすとんと降ろされた。身を捩って腕を叩くと、やっとで解放される。
「いきなりでもないぞ。ここに来るって言っといたはずだけど」
「それは聞いたけど……部屋に無断で入ってこないでよ!」
「それよりもリナ、逃げるつもりだったのか?」
 窓を閉めながらガウリイがくすりと笑う。
「……うっ、それは……」
「ん~? 対価も払わずに逃げ出そうとするなんて、傲慢も甚だしいなぁ~」
 ガウリイが窓際からゆっくりと近付いてくる。リナは背後にあった卓の後ろにぐるっとまわり、彼から距離を取る。
「なんであんたはあたしの所に来るのよ! あたしなんて『対価を払ってもらうにはまだお子様』なんでしょ!」
 警戒心を露わにし、ガウリイを睨みつける。彼はやれやれと頬を掻き、椅子を引いて腰掛けた。
「そうだな、リナはまだお子様だ。──実を言うとな、オレはお前さんを抱くために来たわけじゃない」
「じゃ何しに来たのよ!?」
 人をさんざん悩ませておいて、抱きに来たわけじゃないと言う。下手な回答だったら叩き出さんばかりにリナは強く言った。
「……オレは命を狙われているんだ」
「え……?」
 突然の物騒な内容に目を丸くして驚くリナに、ガウリイは大臣や皇太后の策略によりたびたび襲われることをかいつまんで話し聞かせた。
「宮廷を歩くとな、十人に一人はオレを狙う者とすれ違う」
「……それが大臣や皇太后の手の者だっていうの?」
「そうだ。お前さんには悪いが後宮に隠れるためにしばらくの間、夜はここに通うことにするから許せ」
「ええっ、しばらく通う!?」
 今夜だけではなく、毎夜訪れると彼は宣言している。リナは彼に詰め寄って胸倉をわしっと掴み、がくがくと揺さぶった。
「なんでよりにもよってあたしの部屋に通うのよっ!?」
「わわっ、そんなに怒るなよっ! ちゃんと理由もあるんだよ」
「……何よ。言ってみなさいよ」
 離された襟元を正し、椅子に座り直したところでガウリイは棚に置かれた本を見つけた。
「ああ、そう言えばあの本は全部読んだのか?」
「……!」
 リナは質問には答えず、ただ耳まで赤くして狼狽する。それで充分答えにはなっただろう。
「……まぁ、本にも書いてあるように男と女の関係とは体や精神に快楽をもたらしてもくれるが、同時に油断をも生んでしまう。今のオレが女色に溺れるのは非常に危険きわまりない」
「……それでどうしてあたしの部屋に来る理由になるのよ」
「リナみたいなこどもこどもした宮女だと手を出す気にもなれないだろ? そのお子様体型だとせめてあと数年は待たないと……」
「言いたいことはそれだけ……?」
 ゆらりとリナが近寄ってくる。
「どわあぁっ!? 硯はやめろ! それは鈍器だぞっ!」
 制止を無視して振り上げられた腕は、ガウリイにがしっと掴まれた。
「ぬうっ、やるわね! あたしの攻撃を防ぐとはっ!!」
「リナ、聞け。理由はもう一つある!」
「何よ!?」
「それはな、『お前さんが気に入ったから』だよ」
 ぼとっ、と──いや、硯だからこの場合はごすっ、とでも言っておこうか。硯は床に落ちた。


「……よ、よくもぬけぬけとそんなことが言えるわねっ」
 照れを隠すためか、さきほどからリナは視線を合わさずに卓に座っていた。
「気に入りもしない奴の部屋に毎晩通うのも苦痛だろ?」
 菓子をつまみながらのほほんと言い返す。菓子入れは卓上に広げられた本と紙の間に置かれている。普通の宮女の部屋は香がたちこめ皇帝を迎える準備が整っているものだが、リナの部屋は本と紙と墨の香りがするというまったく色気のないものだった。
「……これがまとめているっていう見聞録なのか?」
 卓の上の紙を指し、リナに聞く。紙に書かれた字は素晴らしく達筆だった。
「あ……うん。そうよ。そこは家を出て半年ぐらいの頃ね」
「なんでまた一人で旅をしていたんだ?」
 このご時世に少女一人で物見遊山するなんてあり得ない。物騒な連中に攫われたり襲われたり、最悪命すら奪われてしまう可能性だってある。そのような危険もかえりみずに旅をする目的はなんなのか、彼は興味があった。
「ねーちゃんに『世界を見てこい』って言われたのよ」
「……は?」
「ゼフィーリアで実家の手伝いとかしてたんだけど、ねーちゃんにそう言われたの。だから旅をしているのよ」
「何だ、その理由は……他の家族は反対しなかったのか!?」
「『いーんじゃないのか? 行ってこい』って賛成されたけど」
 何という一家だろう。
 そりゃ一人だけじゃこんな破天荒には育たないよな、家族まとめて理解不能かよ……とガウリイはある意味納得してしまった。
「放任というか何というか、すごい家族だな」
「別にほったらかしっていうわけじゃないわよ。それだけあたしを信用して、そして外に出してくれただけ」
 リナは卓上の紙を手に取って目を通しながら、薄く微笑む。
「だから帰ってもちゃんと報告できるように、見聞録書いているのよ」
「……家族の仲が良いっていいなぁ」
 そんなリナを見て真顔で言う。彼が義理とはいえ、母親に命を狙われていることをリナは思い出す。
「苦労しているのね、あんた……えっと……陛下も」
「オレのことはガウリイ、でいいよ」
「んじゃ……ガウリイ」
 その名前を呼ぶと彼は嬉しそうに笑った。

 それからリナはあちこちで見聞きしたことを話して聞かせた。皇帝とは不自由なもので、彼はこの都から外に出たことすらないらしい。ガウリイはリナの話を興味深く、楽しそうに聞く。
 実家のことから出会った物珍しい人々や出来事、いろんな騒動に巻き込まれたこと、最近訪れたこの都がいかに大きくて驚いたかなどリナの話は明け方近くまで続いた。話し疲れてリナはいつのまにか寝てしまっていたが、目が覚めてみれば寝台に運ばれていて部屋にガウリイの姿はなかった。
 皇帝が毎夜訪れてくるとは困ったことになったが、リナは昨夜のようなことぐらいだったらまぁかまわないかと受け入れることにした。むしろ、また今夜もガウリイが来るのかと思うとぜか心がざわめく。見聞録に書くネタが増えていいわ、とリナは嬉しい理由を無意識にそういうことにしておいた。
 ──余談だが、その日リナの部屋を掃除した従者は、皇帝が昨夜訪れたはずなのに、寝所に乱れも汚れもないのを見て首を傾げたのだった。
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