後宮伝説 3

 後宮には大講堂があり、さらにその奥には書庫がある。
 大講堂では皇帝の妃となるに相応しい教養と知識を宮女達に学ばせる為の特殊な教育機関、「女大学」の講義が行われる。その講義で使う貴重な資料や書物はその書庫に納められているのだ。書庫は好きに利用していいと宮女達に開放されてはいるが、流行の髪形がどうだとか肌艶を良くする薬が手に入っただとか、日々の美容に熱中している彼女らにはまるで縁のない場所であった。
 ──が、最近はその人気のない部屋に入り浸る者がいた。
 壁の上まである高い棚にはぎっしりと書物が納められ、威圧感を生んでいる。閉鎖的な空間は埃っぽくて快適な場所とはとても言えないが、書物はどこでも貴重品であるし、一日中自分の好きに使えるとあってリナは暇さえあれば頻繁に書庫を利用していた。
 卓上には山のように本が積み重ねられ、その間のわずかな隙間には広げられた紙と筆が置かれているのが見える。
 リナは──卓から離れ、ちょうど本棚の高い所にある書物を取ろうとしていた。
「っと……こんな高いところじゃ取りにくいったらないわよ!」
 精一杯手を伸ばすが、小柄な彼女の指先は背表紙の下をかするだけ。見ているほうがもどかしい動作を何度か繰り返したところで、不意にリナの後ろから大きな手が現れて本をさらい取っていった。気配もなく現れた手に驚き、慌てて振り返ると。リナの背後に立つ人物は、分厚い本の埃を軽く払って差し出した。
「お前さん、ずいぶんと難しそうな本を読むんだな」
「あ、ありがと」
 リナは自分よりも随分と背の高い、金髪の男から本を受け取る。その男はリナを見るとへぇと小さく呟いた。
 彼女の服装は旅をしていたころとはうってかわり、裾の長い明るい色の服になっている。丹念に櫛を通された髪はたおやかに結われ、身体つきはまだ子供っぽいものの、緩やかな服を纏う姿はどこぞの姫と言われても疑わないほどであった。彼は噂に聞くお転婆ぶりから想像していた姿との違いに驚く。
 本棚と自分をじろじろと見下ろす男に挟まれた形になり、リナは妙な気まずさを覚える。何をそんなに見ているのだろうこの男は。めずらしい生き物でも見るみたいに……と思ったところで、リナはあることにはたと気がついた。
「──お、男ぉっ!?なななんでここに男がいるのっ!?」
「わっ、急に大声出すなよ!」
 後宮には皇帝以外の男性が立ち入ることは、特別な理由がないと許されない。
 ──ということは──あることに思い当たったリナの頬に汗がひとすじ流れる。
「あ、あんたまさか……」
 美丈夫はリナが考えていることを肯定するようににやりと笑った。
「──あんた宦官ねっ!?」
 ずべ。
「あ、あのなぁっ! なんでそういう発想になるんだ!?」
「だって、そりゃガタイはいいけど顔はちょっとしたら女みたいだし、そういう可能性が考えられるなぁ、と……」
「オレはあんなにひょろっちくない!! それにちゃんとついてるぞ!」
「へ? ついてるって何が?」
「何がって……」
 彼の視線が己の股間へと下がる。リナもつられて彼の股間を見て、それからやっと意味に気付いた。
「ぎっ、ぎぃゃあぁぁぁ~~~っ!!何言ってんの、この変態っ!!」
 手に持っていた本を角から振り下ろす。
 ごすっ! とそれは鈍い音を立てて見事に命中し、彼を床に沈めたのだった。


「い、痛ててっ……角から殴るかぁ? 普通っ!」
「あんたが乙女に向かってふざけたこと言うからでしょ!」
 頭をさすりながらリナを見ると、彼女は頬を膨らませてぷいっとそっぽを向く。
「だからって自分の主を殴るかよ」
「──主? あんたが?」
 自分の主とはどういう意味なのか?
 理解できずにリナは彼をきょとんと見た。
 不思議そうにぱちくりと目をまばたかせる様子がなんとも可愛らしい。
「オレの名はガウリイ。この国の皇帝だ」
 威厳ももったいぶる様子もなく、まるで何でもないことのように彼は言う。
 ――ぽっかりと間が空いた。リナは目を見開いたまましばらく硬直する。
「おーい。聞こえてるか? オレが皇帝なんだってば」
「……えぇぇぇぇっ!? あんたが?嘘っ!」
「皇帝に嘘と言うか? 面白い奴だな」
「そっ、その皇帝がなんでこんなところに来るのよ!」
 皇帝なんぞ玉座に鎮座しているもので、もし会う機会があっても「苦しうない、近う寄れ」とでも言ってくるような存在と思っていた。
 それが、こんなところにひょっこり自分から現れるとは。
「何言ってるんだ。皇帝が後宮に来ちゃいかんのか? 後宮は皇帝の所有物。 つまりは後宮に住む宮女のリナもオレの所有物ってことになるんだが」
 くすりと笑いながらリナを諭すように言う。
 しかしその言葉を聞くとリナは動揺から一転してきゅっと表情を険しくし、強い口調できっぱりと言った。
「所有物ですって? あたしはあたしで、あんたなんかの物じゃないわ」
「……は? お前さん、オレの嫁さんになりたくて来たんじゃないのか?」
「違うわよ!」
 間を置かず即座に否定され、ガウリイは予想外の返事に驚愕した。 後宮にいる宮女からこんなに邪険に扱われたことが未だかつてあっただろうか。そもそも皇帝の嫁になりたくない宮女がいることがおかしい。何かが間違っている。
「……じゃリナは一体何をしにここに来たんだ!?」
「ここに来ると金が貰えるし三食昼寝付きって聞いたからよ! こんな良い環境はまたとないし、ちょうど今までの見聞録もまとめておきたかったからちょっと身を寄せただけ! 勘違いしないでよねっ」
「はあぁ!?」
 聞いたことも無いような入宮動機。後宮をまるっきり「便利な宿泊所」扱いしている。噂を超える破天荒な行動にガウリイは心底呆れた。勘違いしているのはどっちなのか。
「お前さん、そんな理由で後宮に入ったってのか? ここが何をするところなのかそれは分かってるんだろうな?」

「……何する場所って。あんたのお妃様を選ぶために女性が集められているんでしょ? 他にどういったことをする必要があるっていうの?」
 その質問にガウリイは口篭もる。後宮の存在する目的はただ一つ。それを自分に言えというのか、この少女は。
「何って……その、後宮らしいコトをするんだよ……」
「後宮らしいコトって?」
 首をかしげ、理解できないといった顔をする。
「……もしかしてお前さん、後宮ってただ女が集められて、ご飯食べてはいオヤスミナサイって寝るだけの場所だと思ってんじゃないだろうな?」
「えっ違うの?」
「そんだけじゃ後宮の意味がないじゃないか! 宮女ってな……その、オレの相手をしなきゃならないんだよ」
「あんたの相手? それってこうやって話相手になれってこと? 皇帝って暇なのね」
 ……なんで後宮で宮女に「後宮の在り方」について説明をしなければならないのか。ゼルガディスから後宮ですべきことについてさんざん説教されたが、こうして宮女に説明しなければならない状況になるなんて泣けてくる。こいつが入宮する前にそこんとこがわかってるかどうかの確認ぐらいしておけよ、とガウリイは思ったが、そもそも後宮について分かっていないまま入って来るリナの方がおかしいのである。
「あ~もう! だから、男と女がするコトがあるだろ! 宮女はそのために集められてるんだよ!」
「…………………」
 リナの動きがぴたりと止まる。何度かまばたきをして考えこみ、その後「はて?」といった表情でガウリイに聞いてきた。
「『男と女がするコト』って何?」

 …………ひゅる~~…………


 ガウリイは心が北風にさらされたようになった。ぴききっと今まで培ってきた「常識」が凍りつく。虚しい。虚しすぎる。
「ね、だから何よそれって?」
「お前さん、本っ気で言っているのかぁ? 男女が夜にするコトて言ったら……」
 口篭もると、ふざけている様子ではないリナはこっちをじっとみて先を促す。彼女は本気でわかってないのだろうか。ここまで疎いとは信じられなかった。ガウリイは回りくどく言ってみた。
「……リナ。子供の作り方は知っているか?」
「ん、ああ知っているわよ。結婚するとコウノトリが赤ちゃんを……」
「どこの言い伝えだそれはぁぁっ!?」
 頭を抱えたガウリイは、リナは試験が全問正解で後宮入りしたことを思い出した。
 とびぬけた頭脳を持っていても重要なところがすっぽ抜けてしまっている。
「お前さん、ちゃんと女大学の授業聞いているか!? 夜の基本について講義しているはずだぞ」
「ああ、あの授業ね。なんかつまんなさそうな話しているから寝るか自分の論文書いているわ」
「ちゃんと聞けよ!!」
「そんなのあたしの勝手でしょ!」
 だああっ! とガウリイは頭をがしがしと掻き、やおら本棚に行くと本を探しはじめた。
「これと……これと、これ。あとこれもだな」
 そして山積みにした本をリナに手渡す。
「な、何よこれ?」
「あのなぁ、リナ、この本を女大学の教科書と併せて読んでおけ。これぐらい知ってもらわないと困る。世間でもこれぐらい、『あたりまえ』の『常識』なんだぞ? 今後のためにこっちの方面も知っておくべきだ」
 そう言い、リナの柔らかい栗色の髪をぽふぽふとなぜた。
「ちょっと!子供扱いしないでよ!」
「……そういう台詞はこの本を全部読んだ後に言って欲しいもんだな」
 表紙や背表紙に書かれている一見難しそうな、それでいていかがわしい書名を読んでリナは嫌そうな顔をする。
「どうしてあたしがこんな本を読まなくちゃならないのよ」
「ここは無銭飲食を提供する場所じゃないんだ。三度の食事、寝床、綺麗な着物を与えているからにはこちらにも対価を払ってもらうってのが公平な取り引きだろ。そのためにもこの本を読んでリナに勉強してもらわなきゃな」
「んなこと言っても……あたしは好きなように勉強したいだけだし……」
 リナがむー、と口を尖らせる。
「まぁ、対価を払ってもらうにはリナはまだお子様だけど、とにかく読んどけ。んじゃオレはもう行く」
「帰るの?」
「皇帝も忙しいのさ」
 もう一度リナの頭を撫でる。頭に乗せた手がちょっと止まった後、リナの前髪を分けて額を出すとガウリイはそこに軽く口付けた。
「にゃっ!? なな何すんのよっ!?」
 リナは持っていた本をどさっと落とし、額を抑えて目を白黒させる。
「少しぐらい対価を払ってもらわないとな。じゃあまたな」
 そう言うとガウリイは書庫から去っていった。扉をくぐり出、長い金髪が後を追って消えていく。書庫に彼のいた余韻がしばらく残る。
「……ん?またな?」
 千人以上の女性がいるこの後宮で、また彼はリナに会いに来るというのだろうか。リナがここに来たのはほんの気まぐれで、皇帝に目をかけてもらおうと思ったわけではないのに。リナは額を抑えたまましばらく呆然とした。



「どうだ。義母上の動きは」
 後宮から出たところで出迎えてきたゼルガディスに問う。後宮に出入りできる男性は皇帝のみ、皇帝側近のゼルガディスとはいえ、立入ることはできない空間なのだった。
「やはり最近大臣派の者が頻繁に出入りしている。二人は完全に結託したようだな……謀反を目論んでいるんだろうよ」
 ガウリイには腹違いの兄弟が下に何人もいる。実の母はすでに亡くなっており、すぐ下の弟の母──つまり義母が前皇帝の正妃として座していた。
 彼女は自らの子を皇帝にするため、執拗にガウリイを暗殺しようと仕掛けている。最近それに大臣もからんできていた。好き勝手に利権を振るまい、金と政治を操っていたのをガウリイが即位してすぐに制限し、地位を低くしたのを根に持っているようなのだ。
「とうとう手を組んだかー。謀反を起こすという確証はあるのか?」
「まだない。潜り込ませている者にあまり危険なこともさせられないんでな。しばらく様子を見ることになるが、お前はひとまず暗殺されないようにしとけ」
「オレがあんなやつらに簡単に殺されると思うか?」
 ガウリイは常に帯刀している。また第一子として命を狙われるであろうことを憂いた実母より、幼い頃から剣の師を付けられていた。天恵の才もあり、実はガウリイは近衛の兵士よりも剣術に長けている。
「……特に心配しちゃいないが、二人が手を組んだとなったらどんな手を仕掛けてくるかわからないだろ」
「そうだな──なぁ、後宮に隠れる、と言うのはどうだ。なかなか連中は入り込めないぜ」
 いたずらを思いついた子供のような顔をして、ガウリイは提案する。あれほど後宮に行くのを億劫がっていたはずの彼の言葉を聞いて、一体どういった心境の変化かとゼルガディスは片眉を上げた。
「悪くはないが、裏切られて女に寝首をかかれないようにせいぜい気をつけることだな」
 大臣派の流れを汲む宦官がいないとはいいきれない。また、その宦官によって入宮した女がいないともいいきれないのだ。
「……きっとあいつなら大丈夫」
「あいつって?やっと誰かに目星をつけたのか?」
「目星とかそんなんじゃない。まだ子供なんだけどな。面白い奴だった」
「あの変わり者って話の……リナ=インバースか?」
「そうなんだよ! それがな、あいつさぁ……ま、いいや」
 皇帝はさっきのリナを思い出してにこにこと破顔した。ゼルガディスでさえも久々に見る、太陽のように明るい笑顔だった。
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