後宮伝説 20

 彼女を切望する余りに出現した幻かと思った。
 暗い部屋の戸影から、ひょっこりと現れる小柄な姿にガウリイは己の目を疑う。
「リナっ……お前馬鹿か!? 何しに来た!」
「バカはあんたのほうよ! バカバカっ、この大バカくらげ!」
 ガウリイに近寄り襟元を掴む。見つけたらまず一発殴ってやると決心していたが、思い余ってリナは自分の身をガウリイに寄せた。そう何回も抱き締められたことはないはずなのに、彼の温かさがやけに懐かしくて涙が出そうになる。
 ガウリイの手は空を少しさ迷ったあと、そっとリナの背に添えられた。
 自ら投降した皇帝は宮殿の片隅にある一室に閉じ込められていた。見張りはそう多くなく、兵士から場所を無理矢理聞き出し、リナ一人でもここまで来ることができたが──この警備の薄さは、もはや皇帝を重要視してないということなのだろう。
「どうしてここから逃げようとしないの!」
「後宮の解放のために直訴してんだ。オレがのこのこ逃げるわけにいかない」
「まだ攻撃は続いているわ。あいつは取引なんてする気、さらさらないのよ」
「やはり……無駄だったか」
 悔しげに呟いてガウリイはリナに回した腕に力を込めた。引き寄せて肩口に顔を埋める。どこをどうかいくぐってきたのか、リナの絹の衣は土に汚れ裾もぼろぼろに裂けている。細い手足にはところどころに真新しい傷が浮かび上がり、彼女がどれほどの苦労をしてここまできたのかを一目瞭然にしていた。
「リナ……ごめんな。こんなところまで来させちまって。でも最後にお前に会えて良かった。もういいから、お前だけでも逃げろ」
「何言ってんの!? ガウリイも一緒に……」
「オレは皇帝だ。この国と一緒に滅ぶ覚悟はできている」
「そんな覚悟、いらないわよ! 皇帝なんてやめちゃえばいいじゃない!」
 どん、とガウリイの胸を拳で叩く。
 激昂するリナの発言に目を丸くしてガウリイは胸を叩き続ける細い腕を捕まえた。顔を上げたリナの両目にたちまち涙が盛り上がり、ぽろぽろと流れ落ちていく。
「ガウリイが、ここで死んで、何の意味があるの! あたしを未亡人にする気!?」
「リナ、オレは」
「正妃なんて地位いらない! 皇帝もいらない! でも、あたしには、ガウリイが必要だわ」
「……オレが?」
 こくりとうなずいたリナの頬にそっと触れると、その上から彼女の手が重ねられた。
 涙のためにわななく唇にガウリイは静かに己の唇を重ねる。小さな体はぴくりと一瞬だけ反応した。浅い口付けを繰り返して、ほんの少し唇を離したところでリナは薄く目を開く。
「オレ自身が必要だと言ってくれるのはリナだけだ。……だが、皇帝をやめるなんて許されるんだろうか」
「死ぬほうが無責任よ、逃げてるだけじゃない。そんなことしたらあたしが絶対に許さないんだから!」
「皇帝やめちまったら、オレに一体何ができる?」
「生きていれば何でもできるわ」
「リナはいいのか? 皇帝じゃないオレは財産も何もないただの男だぞ」
「あんたはそんなに言葉が欲しいの? あたしは皇帝なんていらないの。ガウリイがいい。あたしだけのものになりなさい」
 リナの言葉にガウリイは嬉しそうに微笑み、引き寄せて再び唇を重ねた。ぎゅうときつく抱き締めると腕の中の彼女は熱い吐息を吐く。
「じゃあ、お前にオレをやるよ」
「……ガウリイ」
 二人は互いの顔しか視界に入らない距離で見つめ合う。長い指が頤を捉え、リナの口角から彼の舌先がなぞっていく。背筋を駆ける感覚にリナが震えると、唇を割ってガウリイの舌が忍び込んできた。次第に深くなる口付けにリナはガウリイにすがる。熱く、呼吸する息さえも全て奪い取られるように深い。眩暈がする。
 ふと、唇を離してガウリイが囁いた。
「だから──お前も、オレにくれないか?」
「あげるわ。全部」
 リナの衣を肌蹴させ、白い首筋に顔を寄せれば甘い香りがした。香ではなく、リナ自身から漂う甘い香り。それこそまるで桃の木の精のようで。その香りをもっと貪りたくて華奢な身体に手を滑らせる。震える細い腕でリナはガウリイをかき寄せ、熱に浮かされたように彼の名を呼び続けた。衣擦れの音にまぎれてくぐもった声が密やかに響く。
 夜明けまで、まだ遠い。
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