後宮伝説 13

 宮女にも官職というものがあり、十以上もある位にそれぞれ任ぜられる。始めは位が低くとも皇帝の寵愛を受ければどんどん出世できるという合理的な仕組みだ。しかしながら正妃という位は不動のものであり、皇帝の第一夫人というとんでもない立場は他の女性達と比較しようもない扱いになるのである。
 延ばし延ばしになっていた官職が決定され、後宮では宮女達が自らの位に満足したり当てが外れたと嘆息するなど、悲喜こもごもの光景が繰り広げられていた。だが身分が高くとも低くとも彼女らの羨望の的は──皇帝の寵愛を一身に受けているという噂の、正妃に選ばれたリナただ一人であった。

 リナはとりわけ豪奢なひと間──専属の従者が数人付けられ、彼女らが何かと「リナ正妃様」と平伏してくる居心地悪い空間──に放り込まれた。ほんの少し前まで土埃にまみれながら旅をするという生活だったのに、なんと雲泥の差があることだろうか。まるで夢のようだ。
 いや、むしろ夢であってほしいとリナは思っていた。


 本後宮ともなるとその装飾は廊下でさえ壮麗なものとなる。もっともその廊下を歩いている皇帝にとっては幼い頃から見なれたものなので、特に気に留めることでもない。それよりも彼の思考はこの先の部屋にいるであろう、リナのことで占められている。
 彼女に殴られた所にはこぶができており、まだずきずきと痛む。硯で殴られたあの時のお返しとばかりにリナを正妃に据えるように指示したところ、彼女は外宮廷に乗り込もうとするほどの勢いで激怒したと伝え聞いた。その光景が容易に想像できて、ガウリイは一人ほくそ笑む。
「どこにも逃がさないぞ、リナ。ここに来てしまったのが運の尽きだ」
 リナを手放す気は毛頭ない。さらに彼女を手中にするためならもう遠慮はしない、とガウリイは心に決めていた。
 充分時間は与えた。何しろ房事のいろはから教えてやったのだ、後は実技に至っても特に問題はないはず。
 ──それにもうリナは自分の正妃となっているのだから。

 ガウリイは何が何でもリナを攻略するつもりでいる。恋に浮かれる男の足取りは軽く、雲一つなく晴れ渡っている空と同様にもはや障害は何もないと彼は信じていた。

「リナ正妃様! お待ちくださいませー!」
 ガウリイが目的地である部屋を目の前にしたところで。女性の金切り声とともに扉が開き、中からばたばたと人々が転がり出る。
「は・な・せええぇぇぇ! あたしは正妃なんて認めないわよーっっ!!」
 その小さな体のどこにそれだけの力が隠されているのだろうか。一番最初に飛び出してきたリナは己の左右の腕と腰に二人ずつ従者の女性がしがみ付いている状態で、それでも彼女らを引きずりながら逃げ出そうとしていた。
 服は以前よりも一層豪華で長いものとなり、髪に付けられている飾りはそれ一つで屋敷一つと交換できそうなほどにきらびやかな宝石と細かな装飾がなされた逸品である。しかし残念ながら従者達との攻防戦の結果、豪華絢爛な王朝絵巻を華々しく飾るはずのリナ正妃は服も髪も乱れ放題、従者達の努力形無しの様相であった。
「ぷっ……ははっ、リナ、何やってるんだ?」
 笑劇のような滑稽さに思わずガウリイは声を立てて笑う。皇帝にこちらの悶着を見られていたことに気付くと、従者達は慌てて平伏した。その従者達の手から解放されるやいなや、リナはガウリイに走り寄り掴みかかる。襟首を力任せに引っ張ると身長差のせいでガウリイは屈み込むようになってしまったが、彼は嬉しそうに薄く笑っていた。
「ガウリイィーっ! あんた、よっくも勝手にこんなことしてくれたわね!」
「やー、正妃の服もよく似合ってるなー」
「似合ってる、じゃなぁぁーい! あたしを正妃にするなんて、何考えてんのよあんたはぁぁ! 冗談じゃない、あたしは帰らせてもらうわよ!」
「それは困る。まずは落ち着けよ、リナ」
「これが落ち着いてられるかあああ!!」
 詰め寄って喚くリナを、ガウリイは両手で抱きかかえた。そしてひょいと持ち上げるとその足が地から浮く。
「にょわああぁっ!?」
「とりあえず話し合おうじゃないか、リナv」
 野良猫のように暴れだすリナをものともせずに、すたすたと部屋に向かって歩いた。中に入る一歩手前で皇帝はぴた、と止まり振り向く。 「ああ、もう下がっていいぞ」
 皇帝は従者達に向かってにこやかに微笑む。が、その瞳の色が危険を孕んだものであることには皆気付いただろう。静かに、それでいで凄みを効かせる皇帝に戦慄しながらも従者達は手に負えない正妃から解放されたことにほっと息をつき、下がっていった。

「は、離せええぇぇ!」
「ほいよ」
 ぽすん、と臥所に降ろされる。間を置かずに上がってきたガウリイから後ずさりし、リナは叫んだ。
「あんたはなんでこんなに強引なのよ! 一人で勝手に決めて!」
「強引でもないぜ? 呆れられるくらいに優しくしたぞ」
「強引よ! いきなり正妃にするなんて!」
「オレがいない隙にリナが逃げ出したら困るからな。婢女が四六時中リナの側にいればオレも安心だろ。それに遅かれ早かれ、こうなった」
「いけしゃあしゃあと言ってくれるわね!」
 柳眉を逆立ててガウリイをぎりりと睨みつけるが、彼は涼しい顔をしている。リナの怒りは虚しくもから回りしていた。
「こんなの、体のいい幽閉じゃないの!」
「人聞きの悪い言い方するなよ」
 次第ににじり寄ってくるガウリイにリナは側にあった木枕を掴んで投げたが、難なく避けられてしまう。
「こら、乱暴だぞ。こないだは油断したら硯で殴るしなぁ! あれ、もうすっっごく痛かったぞ!」
「なんならもう一回殴ってあげてもいいのよ! 思いっきりね!」
「いや、あれは遠慮しとく。それにもう油断はしないから」
 いつの間にか端の壁際まで追い詰められたリナには後がなくなっていた。それでも拒否の姿勢を崩さず、口の中に唸りを篭もらせてガウリイを睨みつける。
「刺客の問題解決には協力してあげたわ。でもあたしがここまであんたにつきあう義理はないじゃないの!」
「それが解決しても、残る問題があってだな。オレにまだ後継がいないってことが今大問題らしいんだ。ほら~、これもリナの協力が必要だろ?」
「なんであたしがっ!? 他の人と作りなさいよ!」
「そりゃ、オレがリナがいいと思うからさ」
「あたしは嫌なのっ!」
 じり、とまた一歩迫り来るガウリイの顔めがけてリナは蹴りを見舞おうとしたが、その蹴りを見切ったガウリイに右足首を綺麗に捕まれてしまった。
「ほんと、油断も隙もないなぁ」
 ガウリイがリナの足を引っ張ると体勢が崩れる。長ったらしくて邪魔くさい裾が捲れ上がった。
「わ、わあぁっっ!」
「リナ、一体何が嫌なんだ? 衣食住何ひとつ不自由なくて、それでいてオレの──皇帝の正妃になったんだぞ?」
「思い上がらないで! 何もかもが全部嫌なのよ! いやだっ、離せー!」
 リナに本気で抵抗されてもかえって煽られる。一度たがが外れてしまえば男とはこんなにも欲張りになってしまうものなのか。ガウリイ自身、以前の堪え性はどこへ行ってしまったのか不思議だった。ぐっと押さえつけ──正妃の服は脱がすのに一苦労しそうだ、などと思いながら服に手を掛けた。


「陛下! 陛下ー!」
 その時。
 唐突に激しく叩扉され、宦官の耳障りな甲高い声が寝屋に響く。ほんの少し手が緩んだ隙にリナはガウリイを押しのけ、ぱっと臥所から逃げ出した。
「っぐああぁっ!? 何なんだ一体!? 何でこうも邪魔が入るんだ!」
 邪魔された怒りに震えながら、ガウリイは乱暴に扉を開けた。怒気を隠さない皇帝に殺されそうな視線で睨みつけられ、可哀相な役回りを押し付けられてしまった宦官はひっ、と小さく声を立てて怯えた。皇帝から放出されるどす黒い殺気に、宦官はもはやこの世の終わりが来てしまったかのような恐怖に囚われてしまったが、声を震わせながらもなんとか自分のつとめを果たすべく言伝を口にしたのだった。
「あ、ああ、あの……ゼルガディス様よりご伝言が。『至急宮廷にお戻り下さい』とのことでして……」
「──ゼルが!?」
 ここに来る前には、たいした政務は残っていなかったはず。後宮でくつろいでいる皇帝を人をやってまで緊急に呼び出すとは、どんな用事なのか。ただ事とは思えない嫌な予感が掠めて、ガウリイは渋面を作った。
「くそっ、わかった今行く」
 ゼルのせいで邪魔された礼もついでに返してやる、と息巻いてガウリイは退室しようと一歩踏み出す。室内を振り向くとリナは部屋の奥からガウリイを睨み、しっしっと手で追い払うしぐさをした。
「リナ! また今夜来るからな。覚悟しておけよ!」
「馬鹿っ! ニ度と来るなっ」
 リナの罵声を背後に、ガウリイは去って行った。
「──何が覚悟よ! またぶん殴ってやるんだからっ!」
 あんな乙女心のわからない奴、とリナはひとりごちた。

 ところが宣言にも関わらず、ガウリイはその夜訪れてこなかった。それというのもゼルガディスがガウリイを呼び出した内容というのが、賊軍討伐の戦場から『北師営軍、北関ニテ潰走ス』という耳を疑うような報告が届いたというものだったからだ。
 ゼルガディスが杞憂だ案ずるな、と問題にしなかったはずのガウリイの不安は、現実を伴って形をなし始めた。
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