「リナさん? どうされたんですか!?」
「シルフィール……今夜だけここで寝かせてくれない?」
夜更けに小さく戸を叩かれて開けてみれば、そこにはばつが悪そうに苦笑いするリナがいた。中に入れながら部屋に来た理由を問いただすと「ガウリイと喧嘩したの」とだけ答え、それから口をつぐんでしまう。
明らかにいつものリナと違う。怒ったり笑ったり、リナの表情はいつも変化に富んだものだがこのように思い悩む彼女をシルフィールは見たことがなかった。
「押しかけて来てごめんね……ちょっと疲れたからもう寝ていいかな?」
二言三言、声をかけたものの素っ気無く会話を断わられた。仕方なくシルフィールは広い臥所にリナと二人して横になったのだった。
「本来なら陛下とご一緒するための臥所ですのに……。リナさんと並んで寝ることになるなんて、なんとも奇妙なことですわ」
肩まで毛布を引き上げながら言う。が、リナは期待に反してシルフィールに背を向け寝たまま、何も言おうとしなかった。
「あの……リナさん、陛下と一体何があったのですか?」
「何でもないわよ」
「何でもない? 何でもないことでこんなに落ち込むのですか? ……リナさんらしくないですよ」
背を向けたリナの肩に、宥めるようにそっと手を置いた。憎いはずの恋敵をなぜ励ましているのかしらとシルフィールは自嘲的な思いにかられる。しかしそれでもリナをほっとけなかった。いつもは元気で周囲を退屈させず、そして輝かしいほどの光を放っていたリナだからこそ。
──しばらくそのままでいると、リナがぽつりと喋る。
「あたしが……後宮から出てくって言ったら、ガウリイがだめだって……」
「え、えええっっ!? で、出て行くですって!? どうしてですリナさん!?」
弱々しい声で言われたその内容に、シルフィールは飛び上がらんばかりに驚いた。
「……こういう所、あたしに合ってないわ。いちゃいけない」
「なぜです! あんなに陛下もリナさんがお気に入りなご様子ですのに!」
「もうここにいたくないの!」
「どうして!? リナさん!」
シルフィールが耐えきれずにとうとうがばっと起き上がる。リナは変わらずこちらに背を向けたまま。ただ泣きそうな声だけがリナの今の表情を想像させた。
「──怖いのよ!あたしがどんどん変わっていくのが」
「……リナさん?」
「今は、今のうちはガウリイは毎日来るかもしれない。でもそのうち他の人に通うようになったら? その人を好きになったら? あたしのことなんか忘れてしまうかもしれない! 好きでいてくれても、ガウリイは他の宮女も好きにならないといけないのよ! あたしはそれを考えるだけでも気が狂いそうなのに……そんなことになったらどうすればいいのよ!? だから、あたしはおかしくなる前にここを出たい」
ガウリイが好きで、ガウリイのために自ら後宮に赴いたシルフィールに向かって言えることじゃない。それがわかっていてもリナの独白は止まらなかった。
──自分の情けなさに涙が滲む。
「これ以上ガウリイを好きになりたくない。今ならまだガウリイを忘れるのに間に合うかもしれないから。……こんなところで出会わなければ良かった。ううん、そもそもここに来るんじゃなかった!」
言いたいことを言って口をつぐむと、しんと静かになる。シルフィールの気持ちを無視した一人よがりな弁解は余計にリナの心をさいなませた。吐き出してしまったものの──次の言葉が見つけきれず、背を向けたままただ沈黙する。
「リナさん、あなたって私が思うよりも臆病なんですね」
「……え?」
「今まで恋をしたことはなかったんですか?」
「………………」
「誰かを、どうにもならないくらいに好きになったことはなかったのですか? 恋とは止まらないものです。家族に泣きながら説得されても、後宮には私よりもずっと綺麗で魅力的な女性がたくさんいることがわかっていても、私はここに来ずにはいられませんでした──陛下がおられるからです! そして、あなたは勘違いをしています、リナさん。恋の試練なんて相手が皇帝とかそういうことは関係ありません。例え陛下が皇帝じゃなくても『心移りしたら?』『嫌われたら?』って、不安が尽きることなんてずっとありません。でもそれだからこそ、人は人を愛し続けようとするものじゃないですか!」
とうとうと語るシルフィールに、リナは項垂れる。
「好きになってしまったのなら。どうか逃げないでくださいリナさん。……陛下のためにも」
「あたしはシルフィールの恋敵なのよ。そんなこと言っていいの?」
「そうですわね。リナさんが後宮から逃走してくれれば私は万々歳ですわ! ここぞとばかりに陛下に言い寄って接近します。それでもいいんですか?」
「………………」
リナは布団の中に頭まですっぽりと潜り込んで話がこれ以上進むことを遮った。背後からシルフィールの溜息が聞こえる。
──もっとリナに何か言いたそうだったが、そのうち彼女も横たわる気配がした。
捕まれた腕が痛い。
打ち付けた背中も痛い。
──吸われた首と、彼の手が触れた場所が熱い。
リナはぎゅっと身を縮こまらせ、声も無く少しだけ涙を零した。
翌朝、リナは朝食も取らずに臥所でただ寝ていた。シルフィールが「講義が始まってしまいますよ」と女大学に行こうと勧めたが、無言のうちに拒否した。ごろごろと寝転がっているだけだと次第に頭がぼーっとしてくる。自分の周りの空気だけが澱んで濁っているようだった。
彼から逃げ出してきたはずなのに。
何も進んでいない。解決していない。
寝ても覚めても余計にガウリイのことしか考えられなくなっている。
「あたし……どうしたらいいの」
小さな呟きは誰にも聞き取られずに溶けていった。寝返りを打って溜息をつくと、外の廊下からばたばたと慌しく走る音がした。遠くからだんだんと近付いてきて──こちらに向かってきている──部屋の前──そして部屋の戸がばたん、と勢いよく開かれる。
「リ、リ、リナさんっっ!!」
「……シルフィール。どうしたの?」
飛び込んできたのは部屋の主、シルフィール。
リナは未だはっきりしない頭で彼女を見、起き上がった。
「寝てる場合じゃありませんっ! リナさんが、リナさんが……!!」
「……あたしがどうかしたの?」
「リナさんが……うぅ、そんなっ……!」
「……だからあたしがどうしたのよっ!?」
よほどの衝撃を受けたらしい。シルフィールは悲痛な面持ちで涙ぐむ。それにつられ、リナもゆるゆると不安が湧き上がってきた。一体どんなことがあったというのか。それも自分に関することで。
「今朝、急に宮女の官職が決められてて。それで……リナさんが……あなたが正妃に選ばれてたんです!」
「……ぇぇぇえええええっっ!?」
以降、リナは「リナ正妃様」と呼ばれることになる。勝手に決められた彼女がこれ以上ないほどに激怒したことは想像に堅くない。