後宮伝説 11

 国土を模した土型が大きく広がる室内で、ゼルガディスが賊軍と北師営軍を表すそれぞれの張り子を動かして近付けた。
「報告によれば、この北関で明日にでも賊軍と会戦になる。敵が山岳部になっているが──相手の地の利を足しても北師営軍が圧倒的に有利だな」
「それは賊軍に関する情報が正しければ、だろ?」
「正しいもなにも、こいつらはたった数万の軍勢だぞ! 足掻いても北師営軍には勝てないさ」
「しかしなぁ……」
 ガウリイは先ほどから「しかし」だとか「だが」といった言葉ばかり繰り返す。ルークから聞いたメタリオムの影がどうにもちらついて、素直にゼルガディスの言う情報を信じる気になれないのだ。
「なにいきなり心配性になってやがる。お前はいつもどおりのほほんと構えてればいいんだ。皇后や大臣に潜らせている密偵から何かメタリオムのことがわかったらすぐ知らせてやるさ。今日はもうリナのところにでも行ってやれ」
 気付けば、もうとっくに就寝の時間を過ぎている。ガウリイはゼルガディスに背中を押されるようにして後宮へと向かった。

 ──ゼルガディスは手に取った張り子を何気なくもてあそぶ。刺客に襲われてからあの二人の仲は少しは進展したのかと思ったら。相も変わらずままごとのような日々らしい。
「……しっかりしてくれよな、我らが皇帝陛下」
 ちょん、と台に戻して置いた張り子は場所が悪かったのかころんと転がった。



 ガウリイが必ず通ってくるものだからリナは今夜もちゃんと起きて待っていた。ただ部屋がいつもと違う状態だった。ガウリイは入ってすぐに気付く。
 それは──書庫から持ち出され山のように積み重なっていた書物がなくなっている。卓上のあちこちに散らかされていた紙はきちんと纏められ、文具ひとそろえも整理されていた。生活に必要な備品も見当たらず、誰も住んでないような雰囲気になっていた。部屋の片隅には、中身の詰められた薄汚れた荷袋が置かれていた。
「どうしたんだ? 他の部屋にでも移るつもりなのか?」
 ミリーナの急襲で壊されてしまった所は全て修繕させたはず。特別に部屋を移動するような理由が思い当たらずガウリイは首を傾げたが、リナはすっきりとした明るい表情をしていた。
「あのね、ガウリイ……あたし、また旅に出ようと思うの」
「……は?」
 ──今リナは何と言った?
 ガウリイは時が止まったかのように立ちすくむ。一瞬にして血の気が引いた。なのにリナは快活にはきはきと信じられない事を言う。いや、彼女をよく見ると目を泳がせてこちらを真っ直ぐに見ていない。
「ほら、あたしってよく意味もわからずに気まぐれでここに来ただけだし。それに刺客の問題も一応解決したじゃない? だからそろそろ旅を再開しようかなって……」
「……いやだ」
「え?」
「いやだ、リナ。どうして!」
「いたっ!」
 ガウリイがリナの腕を掴む。力が入りすぎたのかリナは痛がった。その手を払おうと腕を動かしたが、ガウリイは離すまいとさらにぐっと力を入れていく。
 これまでにない責める者と責められる者の間に流れる空気が重く、二人とも息を詰めた。
「ガウリイっ……痛い」
「なぜ出て行くだなんて言う!? 宮女は……宮女は、皇帝の為に後宮にいるべきだろ!」
 どうしてこんな苦しい言葉しか出てこないのだろう。もっと引き止めるのに相応しい言葉があるはずなのに。
 苦しい表情をして叫ぶガウリイは、口をついて出てきた己の言葉を呪った。
「あたしはあたし! ガウリイの物じゃないわ!」
 ほら、彼女がこう言うのは目に見えているのに。
 それでも──手放すわけにはいかない。
 振り解こうと抗うリナの腕が鬱血しそうなほどに、ガウリイはぎりりと握り締めた。
「痛い! ガウ……」
 リナは続けて言うことが出来なかった。一瞬で引き寄せられて、唇を無理矢理塞がれて。
 何が起こったのか理解出来なかった。眼前のガウリイ。情緒も何もない唇をただ塞がれているだけのくちづけ。驚いて後ずさったリナのすぐ背後には、運悪く先ほど整頓したばかりの卓が占めていた。
 ぐっと体重を掛けられるとまず栗色の髪が卓上に広がって──リナはあっけなく押し倒されていた。ガウリイが覆い被さるとそれに金の髪が折り重なってくる。
 ──息が上がる。体温が上がる。
「ガウリイ、やめてっ!」
 もがいてどれだけ抵抗しても圧し掛かるガウリイはびくともしなかった。首筋に顔を埋められるとぞくぞくとした刺激がリナの身体を駆け巡る。

 これは──薬を盛られた時に求めていた感覚……?

 細く白い首筋に熱を持つ唇がゆっくりと押し当てられて、くすぐるようになぞられた後、強く吸い上げられた。
「…………!」
 経験したことのない、ぞくりと頭の芯に響くような感覚にリナの抵抗が一瞬緩むと、服の隙間からガウリイの手が忍び込んできた。
「……やぁ!」
 自分でも大袈裟だと思えるほどに、びくんと身体が反応する。リナの首に顔を埋めたまま、ガウリイは手をゆっくりと動かしていく。そのガウリイの手の熱に導かれるようにリナの全身から熱が沸き起こった。
「だめえっ!」
「………………」
 身体をまさぐり続けるガウリイを、リナはなんとか動く片手で必死に押しのけようとする。しかしそれは所詮無駄な抵抗でしかない。リナは藁にも縋る思いで卓の上に手を滑らせた。置かれていた文具に手がぶつかり、筆が転がり落ちる音がした。
「リナ……」
「だめーっ!!」
 とっさに手に触れた物を掴み、力まかせにガウリイの頭に振り下ろす。がつんっ、と鈍い音を立てて皇帝の頭部に見事命中したのは、硯だった。
 ──ぐて、と力を失ったガウリイが重く圧し掛かる。
「ガウリイの馬鹿っ……あたし、だめだよ……ここにいれない。あたしがあたしじゃいられなくなる……っ!」
 気を失って押し潰されそうなほどに重いガウリイの下から這い出し、リナは部屋から飛び出した。


「……あ、荷物」
 動揺のまま部屋から飛び出したものの、今のリナは着の身着のまま、荷物も何も持っていない。
 かといって部屋に戻るのはためらわれる。後ろを振り返り、ガウリイがいる自分の部屋をしばらく見て思案する。後宮の中で行く宛てなどそうそう思いつかないがずっとこうしているわけにもいかず、リナはとぼとぼと歩き出した。
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