浜辺のマーマン 1

 昔々、大海原を治める海の王様がいました。
 王様にはガウリイという次男坊がおりまして、彼はみてくれはいいものの、天然でぽややんとした性格に王様は頭を悩ましていました。けれども当の本人は気にすることもなく、広い海のあちこちをその尾びれで自由自在に泳ぎ回っては探検し、気ままに暮らしておりました。


 ある日、ガウリイは海の中まできらきらと赤くする夕日に誘われて海上に顔を出しました。
 そこには夕日を背景にして大きな船が一隻浮いています。
 船上から聞こえる、海のなかではついぞ聴いたことのない音楽につられて、ガウリイはそっと船に近付いていきました。何より、その音楽に合わせて素敵な歌声が聞こえてきます。歌声は口ずさむようなものでしたが、ガウリイが今まで聞いたどの歌姫の歌声よりも惹きつけられる魅力があったのです。
 こっそり船に近寄ると──ふとその歌声が止み、突然、海上から銛がガウリイを襲ってきました。

「どわあっっ!?」

 寸分の狂いもなく頭を狙ってきた銛を、ガウリイは紙一重で避けます。
 もしほんの少しでも反応が遅ければ──狙われたのがガウリイでなかったら、哀れ、銛の餌食となっていたことでしょう。まさしく危機一髪。ガウリイは慌てて船の陰へ隠れました。

「おっかしいわね~あのへんに金色のくらげみたいのが見えたんだけど」

 船上からそう言って舌打ちする声がしました。
 なんてことしやがるんだ、とガウリイは恐怖と憤慨半々に船を見上げました。驚いたことに手すりから身を乗り出して海をきょろきょろと見回しているのは、綺麗に着飾った、まだあどけなさを残す顔立ちの栗色の髪の少女でした。目の良いガウリイにはそのきらきらした瞳も不敵な表情もよく見えます。

「ああ姫様! 危ないですそんなに乗り出さないでください!」
「わかってるわよ、ちょっと海を見てるだけよ」

 ドレスの裾をからげて銛を片手に持っている少女は、家来らしき者に懇願されてます。
 また発見されて狙われる前に、とガウリイは船から離れてこそこそ逃げました。

「あんな海賊みたいに乱暴なのが姫様なのか……」

 大海をあちこち泳ぎ回ってはいるものの、もっともっと世の中は広くて、陸には自分の見知らぬものがたくさんあるのだなとガウリイは乱暴な姫を見て思ったのでした。
 そして海の底へと帰りながら、その船と行く手にたちこめる黒く厚い雲が気になりました。


 その夜、静かな海の中も底まで濁らせるほどのおそろしい嵐がやってきました。普段は忘れっぽいはずのガウリイですが、あの乱暴な姫が乗っている船が気になってしまい、危険を承知で再び海上へと顔を出しました。
 あの船は大きな波に翻弄されて軽々と木の葉のように持ち上げられ、次の大きなうねりで真っ二つになるとあっさり沈んでしまいました。そこに──海に投げ出される姫をガウリイは見ました。確か、人間は海の中では呼吸ができなくて死んでしまうはずです。
 気付けば、ガウリイは割れた板などを避けて必死に泳ぎ、海に沈もうとする姫を助け出していました。そして青白い顔をした姫を抱えて陸地を目指します。気を失い苦しそうにする姫に息を吹き込んでやりながら、長いこと泳ぎました。そして二人が砂浜にたどり着く頃にはすっかり朝日が昇っていました。

 なんとか砂浜に寝かせ、濡れて張り付く前髪をのけてやると、長い睫毛、すっきりとした鼻、小さな唇をまじまじと見ることができました。顔を見つめながら、昨日のように激しすぎるくらい元気な様子をまた見てみたい──とガウリイが思っていたところ、瞼がふるっと動きます。姫が目を覚まそうとしているのです。
 ガウリイは焦りました。少女と話してみたいのはやまやまなのですが、人間にその姿を見られてはならないと王様から固く言われていたのです。悩んだ挙句、ガウリイはその瞼が開く前にさっと海に戻りました。
 岩陰から少女の様子を伺っていると、彼女が起き出す前に誰かが砂浜にやってきます。それは若い男で、彼女を身なりから姫と気付いたらしく、すぐに「姫! リナさま!」と呼びかけて抱き起こしました。姫はゆっくりと目を開けて、「あれ、ここは……」と不思議そうにきょろきょろとあたりと見回します。
 人間に助けられたしもう大丈夫だろうと、見届けたガウリイはそこから去りました。
 海底へと帰りながらさきほど聞いた姫の名前を呟いてみます。

「リナ姫。リナ……」

 舌に転がる涼やかな響きは、泡となって上へ漂っていきます。
Page Top