灰鎖 1

 ゼフィーリア軍の軍営地は丘の中腹に設営されている。丘を越え、三日も行けば敵の砦に着く距離だ。リナは軍営地の一番はじにある自分の天幕から出て、朝の空気を吸う。土と草の湿ったにおいを鼻腔に感じる。それほどすがすがしいものではないが、死臭や血のにおいでないだけまだマシだった。この時期のゼフィーリアよりもいくらか暖かい気候で、雪が降るにはまだ遠いだろうと感じた。
 もっとも、冬までにはこの戦は終わっているはず。ゼフィーリアはエルメキアへ侵攻を開始した当初から優勢だった。リナの歩んだ跡には幾多の屍が積まれている──これから、もっと増えるのだろう。
 リナは遠くを睨むように顔をきっと上げると、本営に向かって歩き出した。

 戦闘から一夜明け、緊張から解放された兵士たちは簡素な朝食を食べたり汚れた装備を修復したりと、思い思いにつかの間の休息を取っている。だが、黒いマントを翻して歩くリナの姿を認めると、皆一様に視線をそらしリナの視界に入らぬようそっと逃げ、厄除けのまじないを唱えたり彼女の背を見てひそひそと噂話をした。
 ──前日の竜破斬がどれほどすさまじく、どれほどあの魔道士は無情であったか。
 戦況を常に有利にし、時には自分たちの命綱ともなる重要な魔道士ではあるが、魔法でえぐられたあの大地を見ては恐れが先立って感謝の言葉も浮かばない。
 誰かが低くつぶやく。死神、と。



 本営の大きな天幕に入ると、正面奥には満面の笑みを浮かべた将軍が鎮座している。そこに続く左右には上級指揮官が立ち並ぶ。全員の視線がさっとリナを見た。

「昨日はよくやった、インバース。エルメキア王の悔しがる姿が目に浮かぶようだ」

 言って、顎の下のたるみを震わせながら笑う。
 リナは魔道部隊として将軍の下についていた。部隊といっても──上司も部下もいない。リナ一人がいればこと足りるからだ。実際、その強力な魔法は中隊の戦闘力に匹敵すると言われている。他の師団の魔道部隊は複数人を配置しているが、リナはいつも一人きりだった。将軍の作戦を受け、一人で考えて一人で敵を屠る。それで数々の功績を上げてきた。いわば直属の上司は将軍ということになるが──彼すら、リナに対して目の怯えの光を消せずにいる。そして無表情に佇むリナにへつらう笑みを浮かべ、ねぎらっていつもの台詞を口にした。

「褒美をとらせよう。望むものを言うがいい」

「では……」

 リナもいつものように『報奨金を』と言おうとした。さして他に欲しいものなんて、ない。
 そのとき──将軍のさらに奥、壁の影に蠢くものを見た。

「………………?」

 天幕に使う布の塊が置かれているように見えた。それはもぞ、と少し動いたところでまた動かなくなる。
 目をこらして見てみれば、土に汚れた長い髪、鞭打たれ傷ついた広い背中──

(……男?)

「ああ、『これ』な」

 リナの視線に気付いた将軍が後ろを振り返る。

「数日前、おぬしが壊滅させた部隊の生き残りだ。捕らえた指揮官の身分を検めてみたらなんとエルメキアの王子でな……情報を吐かせようとしたが、ちっとも口を割らぬ」

「捕虜、なんですね」

「そうだ。エルメキアに人質交渉を持ちかけたが、拒否された。好きにしろと言ってきおった。王と仲が悪いという噂は聞いていたが見捨てられるほどとはな。身を挺して戦ってこの扱いだ。もっと使えた男だろうに、それを身内の私怨で見捨てるとはむこうもたいした国ではないの」

 エルメキアを嘲って将軍は鼻で笑う。
 リナは動かなくなった男をただじっと見ていた。
 ──王子に生まれ、人に敬われる立場にありながら、こうも簡単に見捨てられる者もいるというのか。

「王と折り合いが悪くても部下には慕われているらしいからな、他の捕虜どもと一緒にして下手に刺激を与えられては困る。しかし情報は得られぬし、金にもならない。理由もなく殺せば蛮行と糾弾されるしな……役に立たん男だ。正直、扱いに困るの」

「では」

 リナ自身も思いがけない言葉が口をつく。

「それを、あたしにください」
Page Top