春のボタン

「どうした、朝からニヤニヤしやがって」
 その能力うんぬんではなく、外見から『注目の新入社員』と噂されてるガウリイは出社そうそう顔が緩んでいた。
 これを『ニヤニヤ』と言わずしてなんと言おう。
 同期のルークはあきれ顔で、挨拶もなしにガウリイに問いかけたのだった。
「おう、おはようルーク!」
「――あ? お前、スーツのボタンが一個取れてるぜ?」
 見てすぐわかる場所に、ボタンに代わって黒く短い糸がただそこにある。
「そーなんだよ、朝、このボタンがいい仕事してくれたんだよ!」
「はあ?」
 ガウリイはきらきらと顔を輝かせている。
「あの娘と初めて話をした!」
「……って、あの、痴漢を飛び蹴りでホームに蹴り出したって女子高生か!?」
 ボタンと痴漢撃退娘にどんな因果関係が、とルークは首を傾げたのだった。

*******

 ガウリイが彼女を初めて見たのは、通勤初日のことだった。
 新入社員1日目の出社に緊張しながら乗っていたその電車で、降りがけの人混みにまぎれて女子高生の尻を撫でた男がいたらしい。
 それからガウリイも驚くほどのあっという間に、女子高生は見事な蹴りで痴漢を撃退していた。

 翌日からガウリイは、周囲に強烈なインパクトを与えたあの女子高生を探して電車に乗るようになっていた。
 少し遠目に彼女を見る。そして、車内に乗客が増えてきたらさりげに彼女の近くに寄って後ろに立つ。
 これで愚かな痴漢から彼女を守ることができるし、勝気な彼女も騒動を起こさずにすむのだ。

 最初は彼女への好奇心と、守ってやりたいという思いつきのような軽い気持ちから始めた。
 そうやってひっそりと彼女の後ろを守っていると、少しずつ彼女のことがわかってくる。
 まず、本が好き。あと立って窓からの風景を見ているのも好き。
 学校や学年もおのずとわかってきた。でも、名前を知る機会はまだない。

 今朝はだんだんと車内が混んできて、彼女と自分との間に人を入れないようにこそこそ懸命な努力をしていたところだった。
 少し距離を詰めたら、彼女の髪からの香りがふわりと漂ってくる。
(いい匂いがする)
 彼女が少し身動きするたびに清廉な匂いが鼻をくすぐってくる。
 背の低い彼女のつむじを見ながらぼうっとしていると、「いたっ」と彼女が声を上げた。
(……なんだ?)
 いぶかしんで少し身をひくと、彼女の頭も一緒に動く。
「あっ!」
 近寄りすぎてしまったのか、自分のスーツのボタンに彼女の栗色の髪の毛が絡まっていた。
 急いでほどこうとしたが、なかなかに難しい。
 このまま降り過ごすことになるのだろうか――とガウリイが考えたとき、髪が絡まって振り向けないでいる彼女から小さなはさみを手渡された。
 裁縫なんぞすることのないガウリイは携帯用の小さなはさみを初めて見た。
 自分には小さすぎて扱いにくいが、急いでボタンの糸を切る。
 彼女の、細くてきれいでいい匂いのする髪を切れるわけがない。

*******

「――ってことがあったんだ! すぐ電車降りたけど、これをきっかけに知り合いになれるかも!」
「女子高生とかぁ?」
「なんだよ……かわいいんだぞ」
 飛び蹴りを見て気に入るという点がよくわからないルークだが、蓼食う虫も好き好き、それ以上は追及しないことにした。
「まあ……ひっそりストーカーし続けた甲斐があったな。というかお前、そのスーツはどうするんだ?」
「あ、ボタン……どうしよ。誰かできる人いるかな?」
 社内でガウリイが裁縫してくれる人を募集でもした日には、女子社員でスーツを巡っての争いが起こりそうだとルークは恐ろしい想像をしてしまった。
「その女子高生がボタン持ってるんだろ? 裁縫をついでにお願いしたらどうだ?」
「……! なんてスバラシイこと思いつくんだ! ありがとうっルーク!」
 ボタンをきっかけに彼女と話すことができたし、ボタン付けをお願いしたらもっと接点が持てそうだとガウリイは期待に心を弾ませた。

 今朝、これまでにない至近距離で自分を見上げてきた彼女を思い出す。
 くるんとした長い睫毛に縁どられた大きな目、遠慮がちな囁き声、指に残る彼女の髪の感触。
 奇跡とも思える光景を反芻しながらガウリイは自分のデスクに突っ伏した。
「はー……なでなでしたい」
 またあの髪に触れて、柔らかな感触を確かめてみたかった。

 彼女に触れたい願望はさておいて、まずは明日の朝だ。
 裁縫をどうやってお願いしようか、ガウリイは仕事よりも真剣に考え始めた。

■ 終 ■
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