ボタン

 電車に揺られながら読んでいた文庫本を最後まで読み終わってしまい、制服姿のリナはそれを鞄にしまった。降りる駅まで手持無沙汰になってしまったが、市街地中央に向かうにつれ車内は混んできているので調度いいタイミングと思うことにした。あとは降りる駅まで、街の朝の景色を眺めていようと窓へ顔を上げる。
 停車した駅で大勢が乗車してきたので、さらに隙間を埋めようと人々の波が動いた。リナが乗る駅ではまだ通路に立つ人もまばらで余裕があるのだが、今はもう背中や肩に人の荷物がぶつかってくるほどぎゅうぎゅうだ。背の低いリナはつり革を使うとぶら下がる状態になってしまうので何にもつかまらず、体を電車の揺れといっしょに動かしながら加速や緩いカーブをやりすごした。
(学校まで……あと3つ)
 窓からの風景をなにとなしに眺める。
(今日はあのコンビニは空いてるのね。あ、桜の葉っぱが目立ってきてる)
 昨日と今日との間違い探しのように外を見ていると、つん、と後ろの髪の毛が引っ張られる感覚がした。直後、電車の揺れで数本が強く引っ張られた。思わず「いたっ」と声が漏れる。
「あっ!」
 リナの後ろ――真後ろというよりは頭上から、男の人の驚く声がした。
 引っ張られた髪を手で探ったら、何かに絡まっているようで引っ張るほどに根元が痛くなる。後ろを向こうとすると髪がぴんと引き攣れて痛いので、リナは振り向くことができなかった。
「す、すみません! オレのボタンに髪が……」
 頭上から降ってくる、焦る声。どうやら後ろの彼は、ボタンに絡まったというリナの髪の毛を外そうとしてくれてるらしい。つんつんと引っ張られてリナの頭が揺れる。
「っ、いたたっ」
「ああっ! すまん! なんか……いつのまにかくるくる絡まってて」
 確かに細くてまっすぐでない癖っ毛ではあるが、こんなふうに後ろの人のボタンに絡まってしまうことになるなんて。
 後ろの人は必死に外そうとしてくれているみたいだが、時々抜けそうなほどに痛く、リナは涙目になった。がたんと低速の電車が停まり、ドアが開いた。出入りで人の波が動き、彼はリナとの間に人が入ってこないようにリナの背に近づいてくれているようだった。ふしゅーっと音を立ててまたドアが閉まり、電車は動き出す。
「ちょっと……待ってて、これはなかなか難しい……うー」
「あの」
僅かに首を動かし、リナはいまだ奮闘している背後の彼を振り向く。見えたのはスーツの胸元。どうやらサラリーマンで、背はリナよりもずっと高いようだった。
「どこで降りるんですか?」
「……! 次の駅だ!」
 次は駅ビルに隣接して商業ビルが多く立ち並ぶビジネス街。リナはしかたない、と考えを決めて肩掛けの通学鞄からミニ裁縫セットの小さなはさみを取りだした。後ろの彼に手渡して、お願いする。
「これで、絡まってる髪を切ってください」
「え? 髪を?」
「もう時間ないし」
 アナウンスで次の駅が告げられている。
「うーん。確かにこれじゃあな……」
 提案に驚いていたわりに、彼の決断は早かった。少し引っ張られる感覚のあと、リナの頭の後ろではさみを使う小さな音がした。
「はい、ハサミ」
「……ども」
 横から差し出されるはさみを受け取りがてら、リナはずっと背後で悪戦苦闘していた彼に振り向いた。
(思っていたとおりに背が高くて、思っていたよりも若い、とっぽい感じのにーちゃんね)
 人の良さそうな雰囲気は声から受ける印象の通りで、スーツの真新しさから新米サラリーマンかなと推測した。そしてそのスーツのボタンが無いのに気付いてリナは目を見張った。ボタンが並んでいるはずの場所に明らかに一つ欠けている。
「それ……」
 乗客がわさわさと出入り口へと動き出し、すぐに電車が停まった。
「まだ髪に絡まってるままかも」
「え」
 頭の後ろに手をやると、指先に小さく固い感触がした。掴んで軽く引っ張るだけでそれは簡単に髪から抜き取ることができる。手の中のボタンを見て顔を上げれば、彼はもう出入り口へ歩き出していた。
「じゃ、オレここで降りるから」
「あの、これ!」
 リナは手を差し出すが、彼はいらないよと身振りして、笑顔を見せた。
「予備があると思うから」
 素早く降りると同時にドアが閉まる。滑るように走り出す電車からリナは改札へ去って行く彼の背をただ見送るしかない。
「って、どーすんのよこれ……」
 手の中にはまだ黒い糸が付いたままのボタンが握りしめられていた。

■ 終 ■
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